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超常現象否定の理論武装を伝授してください!!

1 :理系オンチの理系好き:02/11/26 08:56
僕は幽霊だの、超能力、といったものの存在を否定しています。
科学者・マジシャン立会いの下の厳密な実験で立証した例がないからです。
また相対論は間違っているといった類の「疑似科学」なども胡散臭いものを感じています。
でも理系の知識がないために「科学的に」なぜ存在しないのかという説明ができません。

「今は立証できなくても明日できるかもしれないではないか」
とか
「まだ科学で明らかにされていないだけで、絶対ないとは言い切れない」
とか言われると反論できなくなります。

なぜ念力や透視は絶対できないのか?
相対論は絶対正しい理由etc
を正しい科学知識のないモロ文系の私に教えていただけませんか?
できれば日常言語でお願いします。



2 : :02/11/26 12:09
◆◆◆2ちゃんねる住民調査実施中◆◆◆

・アンケートフォーム
http://cgi.din.or.jp/~norihide/cgi-bin/2ch2/2form.html

2ちゃんねるをテーマにした「論文」を書いています。
(先行研究→http://www5.airnet.ne.jp/umakoya/2chtext.html
その過程で「2ちゃんねら〜」の実態に興味が湧き、
アンケート調査を敢行することにいたしました。
個人情報が外部に漏れることはありません。
2ch利用者の方は一人一回のみ、全16問のアンケートにご協力ください。
データ収集期間は11月26日いっぱいの予定です。

なお2ch全体から、広く、偏りの無いデータを集めたいと考えています。
もしよろしければこのアンケートの存在を、
2chの各板・スレッドに宣伝して頂ければ幸いです。
みなさまのご協力よろしくお願いいたします。

3 :Nanashi_et_al.:02/11/27 01:32
その事を7000件に宣伝します!
http://accessplus.jp/staff/in.cgi?id=3987

4 :Nanashi_et_al.:02/11/27 02:29
科学を勉強したところで「非科学的な出来事」が存在しないとは証明できまい。

「超能力や幽霊は絶対無いとは言い切れない」
→よって超能力や幽霊は実在する。
→しかし、超能力や幽霊の存在する理由は見当たらない。

のどちらに進むかは、信じるか信じないか宗教みたいなもんでしょ。
カルト信者と戦う汚れ役はO槻教授に任せておけ

5 :1:02/11/27 12:04
そうなんですかね?

本当に物理の知識とかないんですけど、
手を触れずに物を動かすなどということが、
例え0.1%でも存在しうるんでしょうか?

科学知識を使って、
「そもそも〜だから、〜であって、〜となるから、念力という現象は存在しない」
という説明を肯定派にしてみたいし、自分も納得したいのですけど。

6 :Nanashi_et_al.:02/11/27 12:28
>>5
完全否定は無理やろ。人間の物理に従ってこの世界が存在している訳ではない。
未発見の相互作用は存在するかもしれん。念力がそれだとは思わんけど。

ただ超常現象の人々は、明らかに故意としか思えない怪しい実験や論理を
駆使して、単に売名や金やワクワク感を求めているだけのようなので、
彼等の言う事にはあまり信憑性を感じましぇん。

7 :Nanashi_et_al.:02/11/27 12:42
>>5
>手を触れずに物を動かすなどということが

そんなの磁石を使えば一発やろ!

8 :Nanashi_et_al.:02/11/27 12:54
>>5
一般的に言って、存在しないという証明は難しいのです。
そうでなくとも、こういうのを存在すると信じてる人は、論理的な結論として
存在すると考えているのではなく、信じていたいので信じてるということが多い
ので、論理から否定しようとするのは無駄でしょう。

9 :Nanashi_et_al.:02/11/27 16:51
>>1
参考までに。
http://village.infoweb.ne.jp/%7Efwjf1899/tondemo/b_guide.html
疑似科学・トンデモについて知るためのブックガイド

成書ではと学会の本やM.ガードナー「奇妙な論理」あたりが基本でしょうか。
あと、こちらのサイトもおすすめです。↓

http://www.ice.gunma-ct.ac.jp/~mame/SKEP_FAQ/skeptic.html
sci.skeptic FAQ日本語訳

超能力、UFOなど具体的な事例が豊富にあり、
また最初の章で科学的手法についてわかりやすく説明してあります。

10 :1:02/11/27 23:44
僕は科学万能主義者ではありませんし、
未知の現象はあるのかもしれないけど、
厳密な検証から逃げている以上、今のところ説得力0といってもいいですよね。
疑似科学系の論法も破綻だらけなんだろうな〜
でも元々の理論を理解してないから(一般向けの啓蒙書オンリーなもので…)
もっともらしく言われると、つまってしまう自分が悔しいのです。

HNKでたまにやる科学特集を見ると
宇宙や生命の壮大な神秘にただただ驚嘆するばかりです。
その不思議さに比べたら呪いだのスプーン曲げだのに
一喜一憂するオカルト番組のあまりの程度の低さにあきれてしまいます。


>>9さん、ありがとうございました。





11 :Nanashi_et_al.:02/11/28 01:47
>>1
もしな、幽霊がいるとして、目に見えたり、音を発したり
するならば、そこにはエネルギーが存在する訳だ。
だったら、俺は墓場に発電所を作りますね。
幽霊から、エネルギーを拝借。
もしかすると永久機関になりそうな気がする。

ん、どうやって幽霊のエネルギーを電気に変えるのかって?!?!
お前ら理系だろ!!そんなの自分で考えろ!!

12 :Nanashi_et_al.:02/11/28 02:49
量子論的にはテレポートもテレキネシスも充分可能だと思いますがどうですか?
トンネル効果で。
確率は0ではない、はず

13 :ととい:02/11/28 06:39
どっかの番組で霊肯定がこう言っておった。
”あなたたち科学者の仕事は、その(霊魂)存在を証明することではない
でしょうか”。ヲイヲイ、どーやってグラント書くんだ?
課題:霊魂の存在を否定はできない証拠を提示する。
仮説:墓場にはいっぱいいるだろう。
目的1:とりあえず墓場に行く
目的2:とりあえずカメラをまわす。
目的3:とりあえずヴィデオを見てみる。*ぼ*い子さん同席のもと。
まあ多分なんかそれらしきものは写っているだろう。
目的4:とりあえず矢追directorに相談してTVで放送する。





14 :1:02/11/28 12:47
>12

もう少し詳しくお聞かせ下さい。

15 :Nanashi_et_al.:02/11/28 12:53

詭弁の特徴のガイドライン: 吉野家編

http://ton.2ch.net/test/read.cgi/gline/1028811653/149-150n



16 :Nanashi_et_al.:02/11/28 13:08
日本科学技術大学の上田教授が最近超常現象を否定する本を出版して
ベストセラーになっているようです。
参考にしてみては?

17 :Nanashi_et_al.:02/11/28 14:22
>>1
あなたのように健全な懐疑精神をお持ちであれば、
それほど科学知識がなくても個人レベルでのトンデモ対策はまず大丈夫でしょう。
霊、超能力、UFO、創造論のような「いかにも」なものはもとより、
血液型別性格判断、マイナスイオン、ゲーム脳のように
科学っぽい装いを凝らしたものにも簡単に騙されたりはしないと思います。
具体的にこれらのどこがおかしいのか、どんな風に批判すれば良いかは
>>9>>16の文献やネット上のトンデモバスターHPを見ればある程度わかるでしょう。

ただ、個人レベルを超えて啓蒙的姿勢でトンデモ批判しようとするなら
やはり自分自身しっかりした科学知識も身につけてないとマズイです。
付け焼刃の知識で穴だらけのトンデモ批判を繰り返すと
逆に自分がウォッチングの対象になってしまう。

ビリーバーに対してどう対処するかは、また別の問題。
どれほど完膚なきまでに論破しようとも、ビリーバーにとっては馬の耳に念仏。
>>8も言うように直接対話は時間の無駄だから放っておいた方がよいでしょう。
(自分の家族がその手のものに金をつぎ込んでいるとか実害があるなら別ですが)

18 :Nanashi_et_al.:02/11/28 15:58
>>16はテレビドラマなんすけど・・・


19 :Nanashi_et_al.:02/11/28 16:27
>>18
映画公開中。
書名は「どんと来い超常現象」だっけ?

20 :Nanashi_et_al.:02/11/28 16:58
心理学板の血液型性格判断スレが参考になるかもね。

21 :Nanashi_et_al.:02/11/28 17:57
4. 血液型性格判断リンク集
ttp://www.remus.dti.ne.jp/~nakanisi/ketsueki/link.html


22 :Nanashi_et_al.:02/11/28 18:10
血液型と性格の関連性 ver5
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1027511531/l50



23 :1:02/11/29 00:22
血液型には驚いたことがあります。
僕も血液型ネタは結構酒場などで盛り上がっていた方ですが、
みんな雑誌や目覚ましテレビの占いと同じ感覚で
「ネタ」として話していると思っていたのですが、少なくない人が
科学的根拠があり、統計学的(肯定派は好きですよね、この言葉)に
それなりの根拠があると本気で思っていることにショックを受けました。
反論すると、「B型はみんなそういうんだよ」などと
循環論法ではぐらかされますし、
実際僕はよく自分の血液型を当てられてしまうのです。
4タイプしかないんだから「B型の性格」なるものに
完全に合致してる人間が大勢いてもおかしくないだろうに…

ただのグチでしたm(__)m

しかし17さんのおっしゃる「科学っぽい装いを凝らしたもの」
は僕にとっては手ごわいです。
リンクを張ってくださったみなさんには感謝しております。

現在数学を独学でやりなおしています。
人間がいかに精緻な理論で宇宙を語ろうしているかがわかれば、
お手軽なオカルトなどより深遠な世界を垣間見られるのにな。



24 :Nanashi_et_al.:02/11/29 00:36
科学では否定命題は証明できない、んじゃなかったっけ?

25 :Nanashi_et_al.:02/11/29 05:04
>>23
血液型は眉唾ですが。

>反論すると、「B型はみんなそういうんだよ」などと
>循環論法ではぐらかされますし、

これは、みんなにとっては「本当かどうかどうでもいい」のに、
それに真面目に反論したことに対しての反応じゃないかな。
幽霊にしても「いないに決まってる」と思うか「いるっぽい」と思うか、「絶対いる」と思うかどうかだけど、
「絶対いる」(どうしようもない)や「いないに決まってる」(健全)はおいといて、
「いるっぽい」と言う人に向かって理論的に反論をかますのは野暮。
そんなものはどうでもいいのであって(だからオカルトのバラエティ番組が成り立つ)、
科学的に決着をつけよう(しかもバラエティ番組においてではなくて、雑談なんかで)とする態度をとることの方が「非現実的」。
疑似科学が問題になるのは、それが健康に関わったり、「現実的な問題」が生じる場合であって、
血液型のようなものは、本当かどうかは問題にならない。
「現実的」、「非現実的」が科学での意味とはズレる(当然だが)。
健全な知識を身につけるのはたいへんいいと思うが、啓蒙厨にならないようにお願いします。

26 :Nanashi_et_al.:02/12/02 13:03
科学は全て仮説によって成り立っている。
ある現象を説明するために最も適した法則を仮定し、
それが多くの場合当てはまればそれが応用性のあるものとして
通用することになる。
しかし今までそれが通用していたからといって
一秒後の世界にそれが全て崩壊してしまうことはないという保証はない。
とりあえずこれまでのところは通用してきたというに過ぎない。
例えば一秒後あなたが死んだとして、死後の世界にまで科学法則が
そのまま使えるということができるだろうか?
ただ分からないというほかない。
科学で死後の世界を否定できるなら、超常現象を担ぎ出す人間はいなくなると
思うが、それはまず不可能。
それがいつか可能となるようなどんな場合も考えることができない。


27 :Nanashi_et_al.:02/12/02 14:49
>>26
理知的な文章にしようとした結果、己の日本語能力の無さを露呈しちゃってるね。

>科学で死後の世界を否定できるなら、超常現象を担ぎ出す人間はいなくなると
思うが、

ンなわきゃ無い。「死後の世界」を信じていない「超常現象ビリーバー」なんて
山ほど居るぞ。

28 :Nanashi_et_al.:02/12/03 00:35
>>26
>科学は全て仮説によって成り立っている。
   すべてではない。 仮説演繹だけでなく確証の過程も重要(下であなたが述べているが)。
>ある現象を説明するために最も適した法則を仮定し、
>それが多くの場合当てはまればそれが応用性のあるものとして
>通用することになる。
>しかし今までそれが通用していたからといって
>一秒後の世界にそれが全て崩壊してしまうことはないという保証はない。
>とりあえずこれまでのところは通用してきたというに過ぎない。
   論理不備のようにも思える。
   前半で自然科学の法則の主観性(最終的に仮説である点)に言及しておきながら、
   後半で自然科学の法則の客観性(世界のなかで自然法則が恒常的である保証がない点)が保証されていないことを批判している。
   主観性を認めるなら、1秒後に自然法則が崩壊することはない(あなたのこの部分は科学法則を客観的に見ている)。
   それは仮説の誤謬として現われるだけだから。
   そして、それが誤謬と解っても、何ら自然科学の方針の誤りではない。    ただ、仮説を練り直せばよい。
   客観性を認めるなら、もちろん、最終的な主観的側面にもかなりの妥当性が認められるということになる。
   その場合は、自然法則の恒常性は、保たれていないのなら大事だが、
   あなたが主観的側面に注目する以上、その大事も、それほど実質的であるとは言えない。

29 :Nanashi_et_al.:02/12/03 00:36
>>26
>例えば一秒後あなたが死んだとして、死後の世界にまで科学法則が
>そのまま使えるということができるだろうか?
   例が極端。 そもそも、科学法則は死後の世界を想定していない。
   イオニア自然学ですら(というかそこで決定的に)その傾向は認められる。
>ただ分からないというほかない。
>科学で死後の世界を否定できるなら、超常現象を担ぎ出す人間はいなくなると
>思うが、それはまず不可能。
   科学で死後の世界を否定しようとするのは、むしろナンセンス。
   しかし(1さんとは意見が異なるかもしれないが)、
   科学のスタンスを多少なりとも身につけることで、
   あまりに蒙昧なことに対する免疫を持つことはできる。
   確かに、科学のスタンスを身につけることで陥る新たな蒙昧もあるだろうが、
   (一部の)超常現象の盲信という蒙昧とは、質的に異なる。
   それを同列に論じるのは、論外(誤解のないように。この論外なことを、あなたが>>26で書いたと言っているのではない)。
>それがいつか可能となるようなどんな場合も考えることができない。
   それは断言できない。 どっちでもない。 現在では無理であるだけに過ぎないでしょう?

30 :Nanashi_et_al. :02/12/03 12:59
>>27
飽くまで私見だが、超常現象を信じるということはどこかで
この世界以外の何らかの別の世界を信じるということと繋がっていると思う。
死後の世界はその代表例として挙げてみた。
死後の世界が実在するものとして科学的にも説明できるなら、死後であれこの普通の世界であれ
さほど違いは無い。しかし実際説明がなされていない以上、それが一種の「超常的」なものとして
考えられることには納得できるのではないか。


>>28-29
私が言いたかったのは、正にあなたが言及している科学の主観性についてだった。
科学法則を客観的に見ることができるとは私も思わない。
そもそも客観性というものが何故自然法則について可能なのかそれすら不可解である。
そこであなたの使っている主観性(最終的に仮説である点)と、
客観性(世界のなかで自然法則が恒常的である保証がない点)ということの意味について
教えてください。

科学法則が主観的(確証された仮説)であるということと、
客観的(世界の中で恒常的)であることの間にはどんな違いがあるのでしょう?

>それは断言できない。 どっちでもない。 現在では無理であるだけに過ぎないでしょう?

いつか死後の世界を否定することが可能となるようなどんな論理も現在の科学には無い
ということは認められるのでしょうか?

31 :27:02/12/03 14:13
>>30
>飽くまで私見だが・・・
本当に私見ですね。

>死後の世界が実在するものとして科学的にも説明できるなら、死後であれこの普通の世界であれ
>さほど違いは無い。しかし実際説明がなされていない以上、それが一種の「超常的」なものとして
>考えられることには納得できるのではないか。
「死後の世界」を語る際、宗教上の方便としてのそれと いわゆる「臨死体験」とは
分けて考えるべきであろう(まあ、信じる宗教によって臨死体験の内容に偏りは生じて
いるだろうが・・・)
前者については科学的説明を試みても無意味だと思われるので、後者に関しての議論と
思ってもよろしいか?
もしそうなら、”(科学的)説明がなされていない”どころか、すでに大脳生理学の分野
において、実験に基づいた充分に合理的な説明はなされていますよ。

32 :30:02/12/03 18:39
>>31
臨死体験を死後の世界の証として考えることに私は反対意見。
臨死体験は、死の瀬戸際から生き返った人間が思い出して語ることを指して言っている。
思い出すことができる時点でそれは生き返ったあとの人間が持っている記憶でしかない。
それは生き返った後に偽の記憶として錯覚されているものかもしれないし、
夢と同じように実際見ていたことも思い出せないのかもしれない。
いずれにせよ、臨死体験を実際に経験している人間の脳の観察を行えば、
臨死体験は死にかかった脳の見る幻影として観察者には捉える事ができる。

しかし、大脳生理学が説明する体験の内容は生き返った後の人間の臨死体験の記憶と
照らし合わせれば一致するものだろうが、実際に臨死体験を体験している人間に
それを確認することは不可能である。
もしかしたら臨死体験の中にいると観察者には思えても本人にはまったく意識は無いかもしれないし、
本当に死後の世界に行っているというように考えることもできる。
本人にとっては現実の世界の自分の脳を含めた身体は関係なく、ただどこか別の世界での体験があるだけ。
その世界から見れば、自分の現実の身体はそれこそ夢の世界のようにしか感じられないかもしれない。
その人にとって自分とは関係の無い誰か別の人間の脳(我々の世界では本人の脳)を観察して
それを説明されても自分のこととは思えないだろう。
「死後の世界」が現実となれば、その人には我々の世界の方が夢のように曖昧なものになる。
臨死体験の大脳生理学的な説明には体験している当事者にその場で確認がとれないという盲点がある。
そもそも「死後の世界」の人間が体験することをこの世界の言葉で説明することに無理がある。

臨死体験を死後の世界の証明とすることに対しては科学的に否定する根拠があるが、
それは臨死体験が完全に脳の見る幻影であって死後の世界とは何の関係もないということは
意味しない。
結局科学が否定できないところの(宗教の方便としての)「死後の世界」の話に戻るようだが、
臨死体験にも科学のみならず色々な立場からの見方が有り得る。

33 :31:02/12/03 20:44
>>32
結局は、このスレで何度も言われてるように、科学的に否定されようが人は信じたい方を信じるってことでしょ。

34 :(・∀・)イイ!(・A・)イクナイ!:02/12/03 22:12
>1
まずは、科学が超常現象を否定しなくてはならない/否定出来るはずだというのは
ただの思い込みであることに気付いてください。思い込みは科学的観察眼を鈍らせます。

形而上学的な、存在そのものを問う問題ではその存在を否定するためには、"存在の証明を否定するだけで良い"のです。
"存在しないことを証明する"必要はありませんし、それは多くの場合不可能です。
ですから、

>「今は立証できなくても明日できるかもしれないではないか」
>とか
>「まだ科学で明らかにされていないだけで、絶対ないとは言い切れない」
>とか言われると反論できなくなります。

これらには、"反論する必要がないのです"。
これはあなたが、超常現象を"否定しなくてはならない"と思い込んでいる為の不必要な苦悩です。
だいたい、これらは科学的にも正しいのです。
いまだに解明されていない事象はたくさんありますし、観察できていない現象ももちろんあるはずです。
例えば、モノポールなどが明日にでも発見されないともいえません。

*科学的見地から出来ることは、"科学的にはおかしい"ということを指摘することだけです。
*それ以上を成そうとするのは科学的ではありません。それこそ、非科学的な行為です。

35 :Nanashi_et_al.:02/12/03 23:15
>>30

>科学法則を客観的に見ることができるとは私も思わない。
ならば「一秒後の世界にそれが全て崩壊してしまうことはないという保証はない」と、
このように糾弾する必要もないし、糾弾することもできない。
科学に携わるものが、そもそも自然法則は理想的には実在すると捉えても、
現段階の自然法則が絶対的に客観的であると思うことは少ないだろう。

>そもそも客観性というものが何故自然法則について可能なのかそれすら不可解である。
安易すぎると思われる。
理想的な自然法則ではなく(これが客観的なのは理想だから)、
現段階の自然法則について、ある程度、客観性が保たれる。
もちろん、絶対的な客観性は保たれない。
絶対的な客観性が保たれているなら、これ以上、科学的な研究はいらないということであるし、
たとえ完全にすべてのものを説明しきる自然法則のグループがあったとしても、
それが絶対的な意味で正しいと示すことはできないから。
ただ、ある程度の客観性さえをも否定することはできない。
その客観性がなければ、19世紀の「科学技術」の誕生はなかったのではないか。
絶対的な客観性がないからといって、科学の客観性を完全に否定するのはよくないと思われる。
そうではなくて、むしろ、科学の考え方(つまり科学の論理)が、
十分とされる程度の客観性をどのように維持しているのかを見極めなければならない。
例えば「ある現象を説明するために最も適した法則を仮定し、
それが多くの場合当てはまればそれが応用性のあるものとして
通用することになる」では当然不十分であるわけで、
もっと踏み込むと、科学的な「説明」が必ずしも一義的に考えてよいものではないと解る。
>>30さんのように極端な考え方に陥っている方には、
科学哲学の入門書を読まれることを勧めます(まともな科学哲学の入門書は僅少ですが)。
そう単純な話ではありません。

>いつか死後の世界を否定することが可能となるようなどんな論理も現在の科学には無い
>ということは認められるのでしょうか?
現在の科学の全分野に通暁している人にでも訊ねてください。いるのかは知りませんが。

36 :Nanashi_et_al.:02/12/03 23:21
>>31-33
>臨死体験
について。
おそらく超常現象肯定派からしてみれば、
同性愛研究などで心理学において「愛」を「性的衝動」と操作的に定義するのと同様に
(今現在このように考えているのかは知りませんが)、
生理学的な解明は、中途半端なものと見られるでしょうね。

>「死後の世界」
について。
>死後の世界が実在するものとして科学的にも説明できるなら、死後であれこの普通の世界であれ
>さほど違いは無い。しかし実際説明がなされていない以上、それが一種の「超常的」なものとして
>考えられることには納得できるのではないか。
超常現象肯定派と科学者の態度の対立としてではなく、素朴に子どもの問いの2つとして、
「死後の世界はどうなってるの?」と「宇宙の外はどうなってるの?」とでは、
問題の立て方が異なってくる。
それを同じレベルで扱うのは早急(十分な検討をした上でならともかく)。
ギリシア神話の世界とイオニアの自然哲学との違いと同じであると思う。
いずれも人間の理性の延長上にあることは確かだが、
前者が何らかの超越的なものの立場を認めるのに対して、
後者はそれを認めず、自然に内在する原理によって動くと考えた
(上記の問題の立て方の差は、ここで決定的な質の差となっていると思われる)。

37 :Nanashi_et_al.:02/12/04 00:02
再現性

38 :Nanashi_et_al.:02/12/04 01:57
>>32
科学的に否定されようが人は信じたい方を信じるってことでしょ。

科学が否定できたわけではないということを書いたのですが・・・

>>35-36
>このように糾弾する必要もないし、糾弾することもできない。

糾弾しているつもりはない。科学法則が主観的な根拠しか持たないとしても、
それがこの世界のリアルな現実を説明する言葉として流通している限り、
それが成り立たなくなることを「科学法則の崩壊」と言っていけない理由はない。
例えば重力があるこの地球上で物体が勝手に空中浮遊したとすれば誰でも驚くだろう。
普段見慣れていない事柄が起こることについて、「常識が崩れる」という言葉と
同じような意味で使っている。

39 :Nanashi_et_al.:02/12/04 01:57
>絶対的な客観性がないからといって、科学の客観性を完全に否定するのはよくないと思われる。

>>30でも書いたが、あなたの言う科学の「客観性」には、一体どんな意味があるのか。
私が科学法則が主観的なものとしてしか考える事ができないと言っているのは、
人間が科学法則に限らず何かの論理に則って説明できるものが一括されて
「説明可能」と考えられているのに過ぎないからである。
説明が可能であると考えている思考を含めて全て「主観」の中で考える事ができる。
説明が可能であるということは、それが不可能であるということとどう違うのか?
科学法則は何かを説明するための論理であると同時にそれ自体が現象である。
科学法則の中で使われる論理を説明するために新たな論理が必要となる。
論理が論理であるのは、誰もが疑うことのできない明白な事柄、例えば1+1=2
ということにそれらが還元できるからである。
この誰も疑うことのできない基本的な原理の連なりの中で、自然の動きに
とりあえず合致しているものがあるとすれば、それが自然の持つ法則と見なされる事になる。
仮説の確証とは、論理的連関も含めて仮説が自然と一致するということを意味する。
ところで1+1=2は自然法則なのか?何故1+1=3であってはいけないのか?
については説明できない。
これは人間の中にある論理であって本来自然とは関係のないものだから、
自然の中をいくら探っても答は出てこない。
人間の論理が何故このようであって他のものでは無いのかについて説明はできないが
自然の中には論理に似た動きをするものがあったり無かったりする。
空想や純粋に数学的な抽象の中にもそれなりの論理があるが、自然はそのどれにも
全て当てはまるというわけではない。


40 :Nanashi_et_al.:02/12/04 01:58
続き

言ってみれば、科学法則とは、ある自然現象に対して、人間の持つ「論理」という
現象の中で自然現象に似た動きをするものの組み合せを選び出したものであるということになる。
その上で自然が論理、又は何らかの規則性に従っているというのは話が逆で、
実は人間の中で自明な論理と思われているものと結び付けられる限りの自然を
勝手に自分の中の論理で解釈しているに過ぎない。

「説明」とは、ある現象を他の現象と関連付けていくことである。
例えば今目に見える物体を顕微鏡なり何なりで拡大すればどのように見える、
ということを行うには、今見えるものと顕微鏡で見たものが別のものでは無く、
同じ物の違った面であると思考することが必要となる。
これを当然のこととして考えるのが「論理」である。
自然そのものの中に目で見えるものと顕微鏡で見たものが同じであるという規則は無い。

自然を何らかの規則性と結びつけて考える事がなぜ「客観的」であるということになるのか。
更にある事柄を「規則的」であると見なす人間の主観はそれ自体が「客観的」なものと
いえるのかどうか。
人間がたまたま感じる何かに対しての「規則性」は、それ自体を取り出すと何の根拠も無い。

>後者(イオニアの自然哲学)はそれを認めず、自然に内在する原理によって動くと考えた

これは前述のこととも関係があるが、そもそも自然の中に内在している原理とは、
自然の動きの中で人間が勝手に論理的だと感じるものだけを抽出して
そう呼んでいるだけなので、そんな「原理」が存在することを超越的な存在を
否定する根拠にするのは少し問題があると思う。


41 :38:02/12/04 02:09
>>38>>32は、>>33の誤り。

42 :Nanashi_et_al.:02/12/04 06:33
>>38-39

>私が科学法則が主観的なものとしてしか考える事ができないと言っているのは、
>人間が科学法則に限らず何かの論理に則って説明できるものが一括されて
>「説明可能」と考えられているのに過ぎないからである。
>説明が可能であると考えている思考を含めて全て「主観」の中で考える事ができる。
>説明が可能であるということは、それが不可能であるということとどう違うのか?

このような唯心論的な考え方(特に3行目)には、科学の客観性は対抗できません。
それは科学を論じる上でフェアではありません。
そのように科学の客観性を完全に否定することは、確かに可能です。
しかし「科学で一般に言われている客観性」をまったく検討をすることなく、
出し抜けにその論法を持ち出すのは、論外です。

>>>30でも書いたが、あなたの言う科学の「客観性」には、一体どんな意味があるのか。

それゆえ、これが空虚な質問となるのは明らかです。
お互いに科学の客観性とはどのようなものか、おのおの根気よく検討した上で、
それぞれの「客観性」の概念として比較するならば、意味のあることでしょう。
しかし、そちらがそれを検討しないなら、まったく意味はない。
私は、あなたが唯心論的な立場に立つなら、あなたは、
私が科学に認めるある程度の客観性すら認めないだろうと推測します。
つまり議論が平行線を描くということが予期されるということです。

43 :Nanashi_et_al.:02/12/04 06:33
>>38-39

思弁的な哲学の土俵で否定するのは簡単です。
でも、それはジサクジエンに過ぎません。
科学は器用な知の体系であって、哲学の堅実な知の体系とは異なります。
隅を突いてボロを出すのは容易ですが、科学の営みのど真ん中で、
科学に対抗するとなると、話は違ってくるでしょう。

以上、差し出がましいとは存じましたが、アドバイスさせていただきます。
このことを踏まえなければ、この板には相応しくないと思われましたもので。
やはり、科学哲学の入門書をお読みになられることをお薦めいたします。

44 :Nanashi_et_al.:02/12/04 06:35
ちなみに>>43で「器用」とか「堅実」とかは比喩ですので。

45 :Nanashi_et_al.:02/12/04 07:21
>>38-39

↓逐一レスしてたら長文になったので、削って端的に。

>「科学法則の崩壊」と言っていけない理由はない。

そのような事態に対応できるように科学はできている。
典型として、天王星の発見と、水星の近日点移動の一般相対性理論による解明を挙げます。
有名なのでご存じでしょうから、詳細は省きます。

>>>30でも書いたが、あなたの言う科学の「客観性」には、一体どんな意味があるのか。

ふつうの意味です。対象(客観)に規定されていること。

>人間が科学法則に限らず何かの論理に則って説明できるものが一括されて
>「説明可能」と考えられているのに過ぎないからである。

トートロジカルで、内容が見えてこない。先述の通り、科学的な「説明」の概念は多義的。
どのような“説明”のことを仰っているのか、“何の”説明について仰っているのかなどが不明瞭。

>説明が可能であると考えている思考を含めて全て「主観」の中で考える事ができる。

>>42-43を参照のこと。

>論理が論理であるのは、誰もが疑うことのできない明白な事柄、例えば1+1=2
>ということにそれらが還元できるからである。
>この誰も疑うことのできない基本的な原理の連なりの中で、自然の動きに
>とりあえず合致しているものがあるとすれば、それが自然の持つ法則と見なされる事になる。

失礼ながら、科学の実際の発見がどのように行なわれているか、具体的に知っているのか疑問です。
このように法則が確証された例を挙げていただけませんか。
むしろ、何よりも初めに、主に定量的な、観測データ・観察された事柄があると思われます。

46 :Nanashi_et_al.:02/12/04 07:21
>仮説の確証とは、論理的連関も含めて仮説が自然と一致するということを意味する。

恣意的な定義ではないでしょうか。
通常、仮説の確証は、仮説演繹法によって行なわれると思われます。
それか曖昧な定義であると思われます。
「論理的連関を含めて」とはどのような意味でしょうか。
「自然と一致する」とはどのような意味でしょうか。
具体例を1つ挙げてくだされば、すぐに解る話であると見受けられますので、
例を挙げていただけないでしょうか。

>ところで1+1=2は自然法則なのか?何故1+1=3であってはいけないのか?
>については説明できない。

上でも述べましたが、自然科学では、ここまで還元しません。。

>これは人間の中にある論理であって本来自然とは関係のないものだから、
>(レスの終わりまで)

根拠が薄弱であると思われます。

>言ってみれば、科学法則とは
>(段落の終わりまで)

科学の考え方とは平行線を描くのみです。

>「説明」とは、ある現象を他の現象と関連付けていくことである。
>(段落の終わりまで)

話が極端です。
>>42-43を参照のこと。

47 :Nanashi_et_al.:02/12/04 07:22
>自然を何らかの規則性と結びつけて考える事がなぜ「客観的」であるということになるのか。
>更にある事柄を「規則的」であると見なす人間の主観はそれ自体が「客観的」なものと
>いえるのかどうか。
>人間がたまたま感じる何かに対しての「規則性」は、それ自体を取り出すと何の根拠も無い。

「客観性」とは「正しいこと」ではありませんよ。
観念(っぽいもの)を自然(対象)と結びつけているから、客観的であるわけです。
客観性は、対象に規定されていることですから。
法則が究極的に観念であるとしても、対象に契機づけられているので、客観性があるわけです。
その客観性が十分であるために、自然科学の法則は正しいと見なされます。
客観性の維持の仕方については「客観性の維持の仕方」とそのまま書いてありはしないでしょうが、
科学哲学関連の書籍に載っていると思われます。
最後の行が解らないので、もう少し解説をお願いします。

>これは前述のこととも関係があるが、そもそも自然の中に内在している原理とは、
>自然の動きの中で人間が勝手に論理的だと感じるものだけを抽出して
>そう呼んでいるだけなので、そんな「原理」が存在することを超越的な存在を
>否定する根拠にするのは少し問題があると思う。

超越的な存在を否定するとは主張していません。
根本的に発想が異なると述べたまでです。

48 :32:02/12/04 10:53
>>38
>科学が否定できたわけではないということを書いたのですが・・・

それは理解してますが、私としては >>30における「(科学的に)説明がなされていない」
との発言に疑問を持ったもので、「否定的な説明がなされている」という点では同意を
いただけますよね?

「臨死体験者」以外に「死後の世界」の実在性に関しての信頼できる証言者って
居ないじゃないですか。その証言が肯定・否定のどちらにも解釈できるとなれば、
あえて肯定する人間の心理はやはり「信じたいから信じる」としか言い様がないですよ。

49 :1:02/12/04 14:41
色々勉強になります。主観と客観の問題は面白いですね。
科学といっても一言で語れるものではないことは承知していますが、
如何せん知識不足で…科学論や科学哲学の本を読んでみることにしますね。
お薦めの本とかありますか?

それと非常に即物的で今までのレベルを落としてしまいそうですが、
具体的に、透視・念力・テレパシーといった現象を現行の物理学では
どのように否定しているのでしょう。
例えば、「手を触れずに物を動かすのは不可能」であることを
理論的にどのように説明しているのかを説明していただくとありがたいのですが。

また、アカデミックな現代正統物理学では
「未知のエネルギー、パワーの存在する可能性」
をも認めていないのでしょうか?認めていれば積極的に検証するはずですよね?
でも実際は消極的に思えます。
素人には確固たる理由があるからこそ、
超常現象にはタッチしていないのだと単純に考えてしまいます。

50 :Nanashi_et_al.:02/12/04 15:44
>>49
>具体的に、透視・念力・テレパシーといった現象を現行の物理学では
>どのように否定しているのでしょう。
>例えば、「手を触れずに物を動かすのは不可能」であることを
>理論的にどのように説明しているのかを説明していただくとありがたいのですが。

科学者は別に、理論を武器に超常現象を否定しているわけではありません。
実証主義的に自称超能力者のたぐいを検証実験した結果、インチキが発覚したり、
偶然の域を出ない結果にがっかりさせられてきたのです。

>「未知のエネルギー、パワーの存在する可能性」
>をも認めていないのでしょうか?認めていれば積極的に検証するはずですよね?

フリーエネルギーのたぐいも同様で、さまざまなサギが行われてきました。
今更研究するのは、先人がさんざん掘り返した場所で宝捜しをしようとするような
もので、可能性ゼロとはいわないが、かなり分の悪い賭けといえるでしょう。

結局、超常現象に手を出しても得るものは無いというのが一般的な科学者の認識だと
思いますよ。

51 :Nanashi_et_al.:02/12/04 17:26
>>42-44

>出し抜けにその論法を持ち出すのは、論外です。

このスレでは私が書いたような視点から見た考え方にことによると全く
無自覚なまま議論がなされているのではないかと、
そういう憶測から哲学的な、または唯心論的な立場から
考えを書いたつもりです。

このような論点は少なくとも死後の世界や臨死体験といった、
日頃の生活から大きく外れる事柄について語るときに
科学が必要であるのと同様にそれに対する反省的な視点として
必要になってくるのではないかと思います。

>しかし、そちらがそれを検討しないなら、まったく意味はない。

超常現象などについて考える際の論理には、あなたが使っておられる
「客観性」という言葉から自ずとはみ出してくるものがあるのではないかと思います。
通常科学の中で言われている「客観性」にしてもそれが対象としているものや
使う論理により様々な場合があるでしょうし、「器用」にその姿を変えるものでしょう。

52 :Nanashi_et_al.:02/12/04 17:26
続き

>科学の営みのど真ん中で、
>科学に対抗するとなると、話は違ってくるでしょう。

科学の営みのど真ん中で科学に対抗しているつもりはありません。
それについては多くのことが語られているでしょうし、
そんな大それた事ができるとも思いません。
科学の実効性については疑問の余地がないところです。
しかし一部の科学主義者の間には科学の側に立つと称して「超常現象」への余りにも
安易な否定の論理が見られたので、それに対する別の視点を提示し、批判を行う事は
科学の立場により近いものだと思っております。

>私は、あなたが唯心論的な立場に立つなら、あなたは、
>私が科学に認めるある程度の客観性すら認めないだろうと推測します。

そんなことはありません。あなたが科学に認めているある程度の
客観性がどんなことを指しているのか、についてはこれから更に考えていく所存です
が、唯心論的な立場が普段の生活の中で自然法則が成り立っている事を否定することに
なるとは思えません。私の立場を唯心論と仰いますが、それではあなたが
立っておられる視点はどのようなものなのでしょうか?
唯心論的な世界観に対して充分に対抗できる見方とは、どんなものなのでしょうか?

53 :Nanashi_et_al.:02/12/04 17:27
>>45
>そのような事態に対応できるように科学はできている。

私が書いたのは、今まで通用してきた仮説の誤りが実証され、それに新たな理論が
取って代わるような事態ではなく、人が死ぬ時のように今までの確定した自然法則が全て
通用しなくなるかもしれないような事態です。

「客観性」=>ふつうの意味です。対象(客観)に規定されていること。

対象に規定することができないようなどんな事柄があるでしょうか?
私たちが認識するのは全て何かある対象に備わる様々な事柄です。
例えば赤い物体があれば、その赤さはその物体に備わっています。
「客観性」がただ単に対象と関連付けられているという意味ならば、
科学法則に限らずどんなものでも「客観的」ということができます。


>むしろ、何よりも初めに、主に定量的な、観測データ・観察された事柄があると思>われます。

観察された事柄と言った時点でそれは人間の論理の中に取り込まれています。
あなたの言葉で「客観的」な事柄をそこに見るということは、観察が事実上
不可能である色々な事柄(昔の記憶など)とは別の、何かはっきりとしてつかみ所が
あるもの、主に現実の「物体」と呼ばれているものだけを対象に選びます。
今の物体と一秒後の物体が実は何の関係も無く全く別のものではない、という
前提からそれは出発しています。
そのようにとりあえず対象の性質を論理的に前提し、その上である現象が
どのような論理で説明できるのかを考え、法則が「発見」されます。
この過程を経た「科学法則」は、人間の論理に完全で説明でき、自然の動きを
記述する言葉になります。
これは科学法則の発見の場合のみならず、後からそれを確認する場合でも同じ事です。

54 :Nanashi_et_al.:02/12/04 17:29
>>46-47
>「論理的連関を含めて」とはどのような意味でしょうか。
>「自然と一致する」とはどのような意味でしょうか。

>どのような“説明”のことを仰っているのか、“何の”説明について
>仰っているのかなどが不明瞭。

仮説の理論とその確証に限らず、既に確定した自然法則がある
自然現象を「説明」することについて考えます。
私たちが感じる気温についての科学的な説明を考えてみます。
空気の分子が動くスピードが速くなることで私たちの体の神経がより大きく
刺激されることにより、私たちは暑いと感じる。
ここでは暑さを分子のスピードという観点から説明しています。
私たちはそういう説明で暑さの「正体」を知り、「論理的」に把握します。
また、その時の気体の分子の運動についても「論理的」に計算することができます。
論理的連関も含めて法則が自然と一致するというのは、このように論理を以って
何かが説明されることを広く指しています。
そして「暑い」という触覚的な感覚と、視覚的な分子の運動は全く別のものであるのに、
これらを結びつけて「納得」してしまうのが人間の中にある論理というわけです。
自然の中に「暑さ」があるのではなく、それを感じている人間がいるだけです。


55 :Nanashi_et_al.:02/12/04 17:29
続き

>最後の行が解らないので、もう少し解説をお願いします。

これは1+1=2がどうしてそうなるのかを説明できない、ということと同じです。
直線を何故曲線とは別のタイプの形として見てしまうのか、など他にも色々あると思います。
論理や規則性は全ての人間の思考の正しさの根拠とされているわけですが、その基本的な部分が
何故そうなるかわかっていないということ。

>超越的な存在を否定するとは主張していません。
>根本的に発想が異なると述べたまでです。

それなら納得できます。
超越的な存在を仮定することなく自然に内在する原理を追っていくことで
世界を把握しようという発想なわけですね

56 :Nanashi_et_al.:02/12/04 17:30
>>48
>「否定的な説明がなされている」という点では同意を
>いただけますよね?

むしろ肯定にしても否定にしても全く説明できないことが改めて明らかになったという、
そういう説明がなされていると思います。
生理学的にどんなに脳を観察してもわからないこと、例えば遠距離で起こった出来事を
臨死体験中にリアルタイムで見てきたとかそういう事例があったとすると、
現在の科学で説明のできない「超常現象」が見つかったということになるのでしょうが、
しかしそれは死後の世界とは何の関係もありません。
臨死体験の中に科学では説明できない部分があることは初めから明らかなのですから、
あえて「超常現象」をそこに見出そうとしたり、或いはそれが無いことを
明らかにしようとすることは「死後の世界」の証明に関する限り意味がありません。
科学的にどのようにしたら死後の世界が証明できるのか、については何も分かっていません。
現在の科学で臨死体験を考える時、結論は最初から決まっています。
実験結果がどうであれ、死後の世界の肯定にも否定にもならないわけです。
私が>>30で科学的な説明がなされていないと書いたのはそういうことです。


57 :Nanashi_et_al.:02/12/04 17:31
続き

>「臨死体験者」以外に「死後の世界」の実在性に関しての信頼できる証言者って
>居ないじゃないですか。

この前提には疑問があります。私は世界の中で特に臨死体験が
死後の世界の実在性について教えてくれるものとは思いませんが、
臨死体験を「死後の世界」と結び付けて考え、更にその経験者を
信頼のおける証言者と呼ぶ時、その「死後の世界」を
どのようなものとして考えているのかによって見方が違ってきます。
あなたの言う「死後の世界」とは、我々の生きている現実世界とは別の世界を意味しているのでしょうか?
死んだ後に本人(がいたとして)が経験する世界のことなのでしょうか?
死後の世界のことをこの世界でも覚えていられるものなのか、

>あえて肯定する人間の心理はやはり「信じたいから信じる」としか言い様がないで>すよ。

その通りだと思います。ただし、あえて否定する人間(いるかどうか分かりませんが)
についても「信じたくないから信じない」ということが言えると思います。


58 :53:02/12/04 17:35
>>53
×人間の論理に完全で説明でき
○人間の論理で完全に説明でき

59 :48:02/12/04 18:53
>>57-58
そういう見方をするのであれば、人間の説明出来るものは何一つ無いという事になりますね。
別にあなたの見解を否定しようとは思いませんが、この世界を把握しようとする時に、
曖昧なものとかなり確実そうに見えるもの、まずどちらを足掛かりにするべきかまでを
いちいち議論するのは迂遠さがすぎませんか?

>あなたの言う「死後の世界」とは、我々の生きている現実世界とは別の世界を意味しているのでしょうか?
個人的には存在を信じていない「死後の世界」なるものに意味は持たせられません。

>その通りだと思います。ただし、あえて否定する人間(いるかどうか分かりませんが)
>についても「信じたくないから信じない」ということが言えると思います。
他に「信じるべき点が無いので信じない」という人間もいます。

60 :53:02/12/04 19:46
>そういう見方をするのであれば、人間の説明出来るものは何一つ無いという事になりますね。

正しくあなたの仰るとおりで、私にはそもそも説明という言葉の意味が説明できません。
前にも書きましたが、私は説明することに対象を何か他のものに関連付けるという事以上の
意味を見つける事ができないのです。
それ以上の、理想的な「説明」が実在するなら、どのような形でなのか、それを知りたいと
思っています。

>他に「信じるべき点が無いので信じない」という人間もいます。

それは否定すること(死後の世界がないことを信じる事)とは別のことですね。
私が気になるのは、「死後の世界なんて無いに決まっている」という主張を
健全な常識と考えるような風向きが世間にあることです。
私は死後の世界を信じているというのではありませんが、何らかの方法で
在るか無いかを知りたいとはいつも思っています。

61 :34:02/12/05 00:54
>>1>>49

>>34は読んで貰えたのでしょうか・・。
>>50でレスされているとおりです。

>例えば、「手を触れずに物を動かすのは不可能」
不可能ではありません。

>「未知のエネルギー、パワーの存在する可能性」
可能性は捨てていませんが、まず事象としてきちんと存在しなくては研究対象にしようもないのです。
>認めていれば積極的に検証するはずですよね? でも実際は消極的に思えます。
>>50のとおりで、単に可能性が薄いためです。

1さんは未だに
>科学は超常現象を"否定しなくてはならない"と思い込んでいる
ようですね・・。それは科学的な態度ではありません。

再度掲載
*科学的見地から出来ることは、"科学的にはおかしい"ということを指摘することだけです。
*それ以上を成そうとするのは科学的ではありません。それこそ、非科学的な行為です。

客観と主観というテーマで延々と議論が続いているようですが、>>1の問いからすればスレ違いとも思います。
関係がないからではなくて、そこまで踏み込む必要がないからです。
そもそも、何を命題に議論しているのでしょうね。

62 :Nanashi_et_al.:02/12/05 05:56
>>51-55

>このような論点は少なくとも死後の世界や臨死体験といった、
>日頃の生活から大きく外れる事柄について語るときに
>科学が必要であるのと同様に

科学はそれに対して語る術を持ちません。
死後の世界や臨死体験といったものは、純粋に(いわゆる)オカルト的な意味で用いられた場合、
科学の解明する対象とは、原理的にならないからです。
生理学的に臨死体験を解明するのは、オカルト的な意味での臨死体験の解明にはなっていません。
これは下の方であなたが同意いただいているように、
自然科学が超越的な存在を前提しない点で相容れないからです。

>そういう憶測から哲学的な、または唯心論的な立場から
>考えを書いたつもりです。

科学は、オカルトの対象となるものを対象とすることはないので、
ここまで極端に話を無意味に拡大する必要はありません。
考え方としては、>>34さんが仰っているように、
>*科学的見地から出来ることは、"科学的にはおかしい"ということを指摘することだけです。
>*それ以上を成そうとするのは科学的ではありません。それこそ、非科学的な行為です。
ということが健全であると思われます。
「それ以上を成そうとする」科学者に対しては、その憶測は有効かもしれませんが、
このスレにいる大抵の人は>>34のこの引用に留まっていると思われますので、
その憶測は無意味になります。
哲学的・唯心論的に反省された形ではなくても、
あなたの仰る考え方は、感覚的に解っていると思われます。
だから、そこまで掘り返すのは、ここでは無意味ということです
(前のレスで述べた「科学は唯心論にはどうしようもない」が肯定的に捉えられることになります)。

63 :Nanashi_et_al.:02/12/05 05:58
>>51-55

>超常現象などについて考える際の論理には、あなたが使っておられる
>「客観性」という言葉から自ずとはみ出してくるものがあるのではないかと思います。

その通りでしょう。繰り返し申し上げているように、根本的に考え方が異なっていますから。

>通常科学の中で言われている「客観性」にしてもそれが対象としているものや
>使う論理により様々な場合があるでしょうし、「器用」にその姿を変えるものでしょう。

それは違います。語義矛盾です。
客観性を維持していくことができる点で「器用」であるわけです。
プトレマイオス・クラウディオス『数学体系の第1の書』のデータも、
現在でも再現することが可能です(精度の問題は別として)。
それは理論に関係なく、その天文観測データが通用するからです。

>しかし一部の科学主義者の間には科学の側に立つと称して「超常現象」への余りにも
>安易な否定の論理が見られたので、それに対する別の視点を提示し、批判を行う事は
>科学の立場により近いものだと思っております。

上で述べましたが、杞憂です。

>唯心論的な立場が普段の生活の中で自然法則が成り立っている事を否定することに
>なるとは思えません。

そのようには申し上げていません。
唯心論的には、すべてが主観のうちで生起しているなら、
「自然法則の客観性」を論じることはできないと申し上げただけです。

64 :Nanashi_et_al.:02/12/05 05:58
>>51-55

>私の立場を唯心論と仰いますが、それではあなたが
>立っておられる視点はどのようなものなのでしょうか?

科学を哲学的に論じるときの、ふつうの視点です。
「ふつう」はいいかげんな言い方ですが、あなたの立場が極端なので、それで事足りています。

>唯心論的な世界観に対して充分に対抗できる見方とは、どんなものなのでしょうか?

ありません。唯心論が極端だからです。

>人が死ぬ時のように今までの確定した自然法則が全て
>通用しなくなるかもしれないような事態です。

上で仰っていた「一部の科学主義者」に対する批判としてなら、
そうやって提言なさることにも意味があるかもしれませんが(あくまでおざなりの批判ですが)、
ほとんどの人は、科学とオカルトでは視点がそもそも違うとして、
もともと通用するかどうかを問題にしていないでしょう。

>「客観性」がただ単に対象と関連付けられているという意味ならば、
>科学法則に限らずどんなものでも「客観的」ということができます。

その通りです。「主観性を含まない」という意味ではありません。
すべてとは言いませんが、大抵のことは、客観的側面を持ちます。
それで都合が悪くなるような議論をしてきたつもりはありません。
「単に」と仰いますが「客観性」にそれ以上の特殊な意味を持たせるのは
(例えば「主観性を含まない(主観に依存しない)」という意味のように)、
通俗的な意味になってしまって、話がしにくくなります。

65 :Nanashi_et_al.:02/12/05 05:59
>>51-55

>観察された事柄と言った時点でそれは人間の論理の中に取り込まれています。
>(この段落)

観察は「人間の論理」でしょう。人間以外は「観察」をしないわけですから。
「人間の論理」ならば、客観性を含まないのでしょうか。
ある意味で含まなければ、自然科学がここまで発展するはずはないでしょう。
観察データは、科学の客観性を保証する第1のものであると言えると思われます。
観察は「人間の論理」に取り込まれていますが、観察データ自体はそれとは独立しています。
つまり、客観性があるわけです。
観察データが客観性を持っていない仰るかどうかは解りませんが、
もし客観性がないと言うなら、その例を挙げてみてください。
前提があると仰っていますが、それが「科学の論理」にとって不都合だったり、
観察データの客観性を損ねたりすることはありません。

66 :Nanashi_et_al.:02/12/05 06:00
>>51-55

>仮説の理論とその確証に限らず、既に確定した自然法則がある
>自然現象を「説明」することについて考えます。
>(この段落)

この段落の論旨が見えてきません。
例が“主観的な”「暑さ」であるのが論旨を見えにくくしていると思われます。

>そして「暑い」という触覚的な感覚と、視覚的な分子の運動は全く別のものであるのに、
>これらを結びつけて「納得」してしまうのが人間の中にある論理というわけです。
これは、例が“主観的な”ものであることに起因しています。

>これらを結びつけて「納得」してしまうのが人間の中にある論理というわけです。
>自然の中に「暑さ」があるのではなく、それを感じている人間がいるだけです。
この上下の文では「人間」の意味が異なっているのに、同列に扱っています。

>論理的連関も含めて法則が自然と一致するというのは、このように論理を以って
>何かが説明されることを広く指しています。
これは違うでしょう。
論理自体が自然と一致することは、自然を参照することによって示されてはいません。

>論理や規則性は全ての人間の思考の正しさの根拠とされているわけですが、その基本的な部分が
>何故そうなるかわかっていないということ。
論理をやたらと強調していますが、
科学の実際の営みから言うと、それは後から考えた思弁的な“帰結”に過ぎないでしょう
(始まりが無根拠であったわけではなくて)。
「人間の論理」に過ぎないから客観性がない(主観性を排していない)のではなく、
「人間の論理」によって、自然科学にとって十分な客観性を維持しているわけです
(客観性という言葉で主観性を排しているわけではありません)。

67 :Nanashi_et_al.:02/12/05 13:29
>>62

>死後の世界や臨死体験といったものは、純粋に(いわゆる)オカルト的な意味で用いられた場合、
>科学の解明する対象とは、原理的にならないからです。

重箱の隅をほじくるようなことですが、>>29
>それは断言できない。 どっちでもない。 現在では無理であるだけに過ぎないでしょう?

と言っているように、あなたは死後の世界が科学によって否定される可能性を考えておられます。
これはオカルト的な意味での「死後の世界」も含んで言っているものと思われます。
では現在の科学が(オカルト的な意味も含めて)死後の世界の解明をしてはならないという理由は
どこから来るのでしょうか?

>自然科学が超越的な存在を前提しない点で相容れないからです。

私はこれは超越的存在の自然への介入を考えないということだと理解しています。
ここには自然を超越的存在からどのように区別するのかについての思考が省かれていると思われます。
結局のところ主観的なものの中で説明する自然にしても、あなたの言う理想的な客観性を持つものとしての
自然にしても、自然とはそもそも何なのかについての根本に不可知のものが含まれています。

宇宙の外と死後の世界について何故一方は科学の対象になり、一方はならないのかについていまいちよくわかりません。
両方とも人間の認識する世界の延長にあることで、その外がどうなっているのかについての問題です。
両方とも現段階で知ることができないという点では同じです。
「死後の世界」を科学的疑問としてはならない理由は何でしょうか?
まず「自然」とそうでない「超越的なもの」との区別をはっきりつけなければなりません。



68 :Nanashi_et_al.:02/12/05 13:29
続き

>科学は、オカルトの対象となるものを対象とすることはないので、
>ここまで極端に話を無意味に拡大する必要はありません。

拡大し過ぎているとは思えません。超常現象一般はともかく「死後の世界」に関しては現時点で死ぬことが全人間にとって
共通の事柄である限り、科学はそれに無関心でなければならないという理由はありません。

>このスレにいる大抵の人は>>34のこの引用に留まっていると思われますので、
>その憶測は無意味になります。

私の周囲には科学の方法に対して感覚的にすら反省的な視点を持たずに死後の世界を云々する人間が少なからずいるので、
このスレでは話が別とは思えません。

>*科学的見地から出来ることは、"科学的にはおかしい"ということを指摘することだけです。
>*それ以上を成そうとするのは科学的ではありません。それこそ、非科学的な行為です。

"科学的にはおかしい"というのはいわゆる「超常現象」に対して「科学が今まで積み重ねてきた経験則からは外れる」という意味でしょうか?
或いは「今までの科学の論理では説明できない」という意味になるのでしょうか?
では超常現象が存在するならそれがどのような論理で説明できるか、ということは科学の問題にはならないということになってしまいます。


69 :Nanashi_et_al.:02/12/05 13:30
>>63

>それは違います。語義矛盾です。
>客観性を維持していくことができる点で「器用」であるわけです。
>プトレマイオス・クラウディオス『数学体系の第1の書』のデータも、
>現在でも再現することが可能です(精度の問題は別として)。
>それは理論に関係なく、その天文観測データが通用するからです。

ここで使われている「客観性」という言葉が「対象に関連付けられていること」を意味するのなら、
関連付けられる対象により様々な論理や形を持っていると考えるのが妥当でしょう。
例えば神経生理学が対象として含む「人間の心」などは必ずしも他の対象と共通する、維持可能な客観性があるとは言えません。
同じととりあえず見なされる対象(天体)についての過去の観測データが現在も通用するかどうかということではありません。
むしろデータが現在でも通用するからこそ「同じ対象」と見なされるわけです。


70 :Nanashi_et_al.:02/12/05 13:31
続き

>そのようには申し上げていません。
>唯心論的には、すべてが主観のうちで生起しているなら、
>「自然法則の客観性」を論じることはできないと申し上げただけです。

唯心論的な「主観」が意味するものは、「自然法則の客観性(対象に関連付けられていること)」という考え方を否定しているのではありません。
あなたが前に仰った、客観的であることが主観を含まないということではないというのと同様、唯心的に全てが主観の中で生起していると
考えても、同時に自然法則があなたの言うような意味で「客観的」に存在することも可能です。
この場合「対象」そのものが主観の中で考えられるので、この「客観性」はとりあえずそう名づけられた主観性の一部ということに
なるでしょうが・・・

又、全て人間の主観の中で捉えることができると考えることがすぐに「唯心論」に繋がるとも思えません。
唯心論とは言葉の意味からして「心しか存在しない」という主張のことだと私は理解しています。
そのような主義主張が科学とは何の関係も無いことは確かだと思いますが、
主観の方から説明する立場として、科学法法則を人間はどうのように捉えることができるのか、
という議論があらゆる科学哲学から切り離され、無視されているわけではありません。
むしろ主観の側からの視点はどんな科学哲学にも含まれる重要な要素です。


71 :Nanashi_et_al.:02/12/05 13:32
>>64

>科学を哲学的に論じるときの、ふつうの視点です。
>「ふつう」はいいかげんな言い方ですが、あなたの立場が極端なので、それで事足りています。

唯心論以外の科学哲学には唯心論を全く批判できないということでしょうか?
批判できないこと、またそれに代わる世界観を提示できないことを唯心論を「極端」とする理由にはできませんよ。



>ほとんどの人は、科学とオカルトでは視点がそもそも違うとして、
>もともと通用するかどうかを問題にしていないでしょう。

ほとんどの人が超常現象を「否定できない」と言っているのならそれで構いません。
実際には否定派などというものが横行しています。勿論まともな科学者ではありませんから
それはどうでもよいわけですが。


>その通りです。「主観性を含まない」という意味ではありません。
>すべてとは言いませんが、大抵のことは、客観的側面を持ちます。
>それで都合が悪くなるような議論をしてきたつもりはありません。
>「単に」と仰いますが「客観性」にそれ以上の特殊な意味を持たせるのは
>(例えば「主観性を含まない(主観に依存しない)」という意味のように)、
>通俗的な意味になってしまって、話がしにくくなります。


そのような「客観性」が唯心論で否定されているとは思いません。


72 :Nanashi_et_al.:02/12/05 13:32
>>65
>観察データ自体はそれとは独立しています。
>つまり、客観性があるわけです。

「観察データ自体」という考え方ですが、これは「数そのもの」と同じく
人間の論理の中で考え出されたものです。
人間の中に何かを規則正しいものとして捉える「論理」と重なる時だけ、
観察データは意味を持ちます。
たまたま重なっているものを人間が選んで組み合わせ、より大きな「論理」を構成し、
その中でさらにたまたま自然と一致する場合を選んでいるということです。
データが独立していると考えるのは、論理性や規則性がデータに見られるかどうかということとは
関係ありません。
無作為で滅茶苦茶な数字の羅列があったとしても、それを人間から独立していると見ることは可能です。


>もし客観性がないと言うなら、その例を挙げてみてください。

あなたが言っているような「客観性」を持っているものは科学法則に限らずほとんどのものがそうだと思います。
ことさらに科学法則の客観性を問題にするのは何故でしょうか?


73 :Nanashi_et_al.:02/12/05 13:33
>>66
>例が“主観的な”「暑さ」であるのが論旨を見えにくくしていると思われます。

「暑さ」もはっきりとした対象(空気)の性質(暑さ)であるわけですから、あなたの言う「客観的」なものです。
これを「主観的」と言っておられるのはどういう意味でしょうか?
私は暑さも科学法則もあなたの言う「客観的」なものであり、一方だけが「主観的」とは言えない、という立場です。


>この上下の文では「人間」の意味が異なっているのに、同列に扱っています。

どのように異なっているのかよくわかりません。少し説明をお願いします。


>論理自体が自然と一致することは、自然を参照することによって示されてはいません。

全く非論理的な説明が自然についてなされることも可能ということでしょうか?
自然の動きに一致しなければ論理であるかどうかも疑わしいと思うのですが・・・

>論理をやたらと強調していますが、
>科学の実際の営みから言うと、それは後から考えた思弁的な“帰結”に過ぎないでしょう

後から科学法則を確認する側から考えると、発見した人がどのような手続きを踏んだかということも
大事ですが、思弁的な帰結に還元することによってその科学法則がどんな論理性を持っているのかを
考えることも無意味ではないと思います。


74 :Nanashi_et_al.:02/12/05 17:26
>>71

>実際には否定派などというものが横行しています。勿論まともな科学者ではありませんから
>それはどうでもよいわけですが。

否定派が否定しているのは超常現象を盲目的に信じている人間の
矛盾だらけの論法や自称超能力者の子供だましのインチキなどであって、
超常現象そのものを否定しているのではないと思いますよ。

75 :Nanashi_et_al.:02/12/05 22:15
>>62-73

逐一レスしていたらキリがないので、纏め直します。>>62-73に関しては、これで十分であると判断しました。

>自然と超越
観念論的に還元する以前に戻ってください。戻ったときの「自然」と「超越」の区別で十分です。
「明日に“死後の世界”を自然科学の対象しうる方法が発見されるかもしれない」などというのは、まずありえない仮定です。
自然科学が経験科学であることを忘れないでください。
両者の区別が感覚的にお解りにならないなら、ここで議論する意味はありません。話が平行線を辿るだけです
(その区別を正しいと主張なさる必要はありませんし、感覚的なので経験の限りで十分です)。
感覚的にお解りにならない場合、たとえその区別をつけたとしても、
その区別の説明に対して「それはどういうことか?」と無限背進になってしまいます。
ちなみに>>29>>62は当然矛盾していません。

>自然科学の客観性
あなたの仰っているのは、唯心論ではなく、観念論だと思われます(唯心論では物体の実在性を認めません)。
観念論的な還元をするなら、よほど検討しないと有意味な結果は得られません。
あなたのような指摘の仕方では、科学哲学として実のある結論は得られていません。
客観性に関して検討があまりに少ないからです。科学については、客観性については後からやるということでは遅過ぎます。
主観性は重要ですが、主観性だけを中心に持ってきては、科学哲学の争点を隠蔽することになります。

76 :Nanashi_et_al.:02/12/05 22:16
>>62-73

>全く非論理的な説明が自然についてなされることも可能ということでしょうか?
>自然の動きに一致しなければ論理であるかどうかも疑わしいと思うのですが・・・
違います。非論理的なものは、検証される前に破棄されます。
論理は、因果的な規則性といった悟性概念のような日常的に(ただし合理的に)得られる程度の簡単なものです。
自然科学は経験科学であり、日常の(合理的な)経験は科学的な経験を上回るので、十分です
(日常的であるために陥る誤りは、この十分な経験を犯しません。科学の論理はそれほど難しくありません)。
論理的に判断して、科学の論理が科学的に検証されているわけではありません。
科学の論理は、前述の通り、科学以前に前提とされうる程度のものです。
科学的に改めて実験・観察によって検証され、現実と一致することを望まれているのは、
仮説から演繹された事柄です(単純化し過ぎで申し訳ありませんが)。

>例えば神経生理学が対象として含む「人間の心」などは必ずしも他の対象と共通する、維持可能な客観性があるとは言えません。
「人間の心」を“そのまま”対象とするような科学の理論がありますか? あるなら例を挙げてください。
もちろん、私が要求しているのは、神経生理学が対象とする「人間の心」の例であって、
心理学が対象とする「人間の心」の例ではありません。

>同じととりあえず見なされる対象(天体)についての過去の観測データが現在も通用するかどうかということではありません。
>むしろデータが現在でも通用するからこそ「同じ対象」と見なされるわけです。
どんな自然科学者に訊ねても、このように言う人はいないでしょう。

77 :Nanashi_et_al.:02/12/05 22:17
>>62-73

>後から科学法則を確認する側から考えると、発見した人がどのような手続きを踏んだかということも
>大事ですが、思弁的な帰結に還元することによってその科学法則がどんな論理性を持っているのかを
>考えることも無意味ではないと思います。
これは科学法則の論理性の解明ではありません。
科学法則を牽強付会に観念論的に述べているに過ぎなく、
科学の論理を科学の論理として解明する過程を飛ばして突然観念論に進むので無意味になります。

>「暑さ」もはっきりとした対象(空気)の性質(暑さ)であるわけですから、あなたの言う「客観的」なものです。
>これを「主観的」と言っておられるのはどういう意味でしょうか?
暑さと温度を比較すると明確です。暑さと気温では、主観や客観の役割が大きく異なります。
どのように科学的な意味で異なるか(これは科学の論理の考察となります)は、常識的にお解りになると思われます。

>私は暑さも科学法則もあなたの言う「客観的」なものであり、一方だけが「主観的」とは言えない、という立場です。
しかし、そのような科学の論理を科学の論理として解明するより前に、
観念論的に同列として扱うことになると、悪い意味で思弁的に過ぎないことになる。
実際の現実的な科学の論理の争点を隠蔽することになってしまいます。

78 :Nanashi_et_al.:02/12/06 13:06
>>1はとうについていけなくなっていると思われる。かわいそう。。

79 :Nanashi_et_al.:02/12/06 17:16
>>74
>超常現象そのものを否定しているのではないと思いますよ。

あなたの仰る否定派は、まともな人だけを指しているのでしょうが、
実際には超常現象に興味を持つこと自体を否定するような言辞を弄する輩がたくさんいます。
「科学」の手先を自認し、色んな場所で科学者と組んだりするので結局
超常現象肯定派vs超常現象否定派という形で争うことになっているようです。
そういうことの結果超常現象についての話題が出ると「非科学的」と嘲笑され、
辱しめを受けねばならない、そんな場面に数多く出会って来ました。
私自身についてはそんなことは気になりませんが、
議論の対象であって悪くもないものが世間でこのように不当に抑圧されていることに
不満を持っているわけです。

80 :Nanashi_et_al.:02/12/06 17:17
>>75
>両者の区別が感覚的にお解りにならないなら、ここで議論する意味はありません。

あなたは「自然」と「超越」について当然感覚的にわかっておられるのでしょうから、
それをもっと具体的に説明して頂きたく思います。

「宇宙の外」ということは私にとってはかなり超越的なことのように思えます。
これは昔から、宇宙に果てはあるのか、もしあるのならその外を考える事ができるのか、
という哲学的な議論の対象になってきました。

同じような議論に、物を際限なく細かく分けていくなら、何か残るのか、
それとも残らないのか、又は分ける事ができなくなるのか、
といったものもあります。
両方とも私の感覚で言うと「超越的」なものを初めから考慮に入れた議論です。

もしあなたがこれらの議論に感覚的に「超越的」なものを全く認めないのであれば、
私にはあなたの仰る「超越的」と「自然」なものの区別が理解できません。
そして「死後の世界」と「宇宙の外」について後者だけを「自然」とする理由も
分かりません。

81 :Nanashi_et_al.:02/12/06 17:18
続き

>あなたのような指摘の仕方では、科学哲学として実のある結論は得られていません。

私としては、実のある結論を出したいというより、今までの科学哲学が余り問題に
してこなかったと考えられる「超常現象」と科学が対峙したとき、
そこに今までの科学哲学とは違うどのような論点が考えられるか、ということを
言ってきたつもりです。
今まで科学の対象になってきた現象の客観性については既に
従来の科学哲学の中でいかなる反論もできないほど厳密に議論がなされているわけですから、
それを今更ここで問題にする必要もないことです。
ここでは超常現象が従来の科学が対象とするために十分な客観性を持つと見なされてきた現象と
同様に取り扱えるかどうかいうことが問題なのではなく、
そのような「客観性」を持たないものが現実問題としてある時、科学がそれにどう対応するべきか、
ということが重要になってきます。
要するに客観性ということの意味自体が問題になるわけです。
科学が超常現象を対象にしないというなら、従来の科学が対象にできただけの客観性が
超常現象の中には見つからないということは理由になりません。
それは科学が従来の客観性に縛られて、その外のことを全く考える事ができないということです。
現にあなたは「自然」と「超越」の区別さえ個々人の感覚でどうにでもなってしまうぐらい
不安定なものとして考えておられるわけですから、科学が問題にする客観性の範囲などこれからいくらでも変わると考えられます。

科学にとって超常現象とは何なのか、ということを考えるにあたり、
既存の科学の視点だけでそれを捉え切ることができるとは思いません。
もし科学が超常現象を問題にしないなら、いわゆるオカルトが疑似科学のような形で
それをするべきなのか、その場合科学と「疑似科学」とは全く無関係ということで
構わないのか、
「死後の世界」について探求するのは科学でないとするなら、他に
どんなものがそれをできるのか、
もしそれをできるような分野が将来現れたとして、それには科学的側面は全く無いのか。
というように、話は既存の科学だけの問題ではなくなってきます。
いずれにせよ、超常現象には科学は決して関わらないことについて明確な根拠が要ります。

82 :Nanashi_et_al.:02/12/06 17:19
>>76
>「人間の心」を“そのまま”対象とするような科学の理論がありますか? あるなら例を挙げてください。

そのままということがどんな意味なのかよくわかりませんが、
心を脳の機能として捉え、脳の動きを分子レベルで追っていくことで、
脳の損傷や病気を持つ人間の抱える心の問題を明らかにしようという
研究はたくさんあります。
心を対象とする部分だけは科学ではないと線引きをすることはできません。
このようなことが直接「死後の世界」の研究と結びつくわけではありませんが、
私自身は様々な可能性を考えています。

>どんな自然科学者に訊ねても、このように言う人はいないでしょう。
このように言う人はいないかもしれませんが、論理的に否定できる人もいないでしょう。
当然のことですが否定すると同時に別の考え方を示す必要があります。


83 :Nanashi_et_al.:02/12/06 17:19
>>77
>科学の論理を科学の論理として解明する過程を飛ばして突然観念論に進むので無意味になります。

論理の科学的な解明は既存の科学哲学のことでもう充分に言われています。
私は観念論的な視点を導入することで、超常現象と科学がどんな関係を
持つ事ができるのか、というごく狭い範囲の事柄を問題にしているに過ぎません。

>暑さと温度を比較すると明確です。暑さと気温では、主観や客観の役割が大きく異なります。

科学の論理が暑さと比べて「主観的」でないのはどうしてでしょうか
「暑さ」と「温度」が科学の中でなくとも違うことは明らかですが、
それが「主観的」と「客観的」の違いであることの根拠を教えて頂きたいです。

>しかし、そのような科学の論理を科学の論理として解明するより前に、
>観念論的に同列として扱うことになると、悪い意味で思弁的に過ぎないことになる。
>実際の現実的な科学の論理の争点を隠蔽することになってしまいます。

実際の現実的な科学の争点については私は余り言うべきことがありません。
むしろここではスレタイからしてあなたの仰る思弁的な議論もどんどん行うべきだと思います。


84 :Nanashi_et_al.:02/12/06 19:53
>>79-83

>>79
それは無視しましょう。それにこだわるのは時間の無駄です。
それはこの板に帰せられるようなことではありません。

>>80
現段階で何が超越で何が自然かは問題ではありません。
宇宙の外や死後の世界は、あくまで便宜的な例のつもりだったので、
そこまで徹底的に、前者を自然の代表、後者を超越の代表として扱うことは無意味です。
自然と超越とは経験的な区別です。ミクロの方向でも同様です。
原子まで分解できることが“これまでに経験的に”知られているとして、
(もちろん試行錯誤はありますが)原子核と電子とで構成されていると考えるとします。
これが自然なのは、私たちの“これまでの経験的な”世界のなかで考えられているからでしょう。
死後の世界はそこから超越しています。幽霊のような存在も超越しているということになりますが、
死後の世界とは超越の仕方が異なっているのでしょう(「仕方」なんかどうでもいいですけど)。
自然科学での経験的な判断と言うより他はありません。
>>34より以上ということも以下ということもないということです。

>>81
それは科学哲学ではありません。
自然科学が経験科学であることを踏まえていない議論です。

>従来の科学哲学の中でいかなる反論もできないほど厳密に議論がなされているわけですから、
大きな誤解です。

85 :Nanashi_et_al.:02/12/06 19:54
>>79-83

>>82
>心を脳の機能として捉え、脳の動きを分子レベルで追っていくことで、
>脳の損傷や病気を持つ人間の抱える心の問題を明らかにしようという
>研究はたくさんあります。
具体的に例を挙げてください。

>そのままということがどんな意味なのかよくわかりませんが、
操作的定義などのようなことを言ったつもりです。
操作的定義とは、ご存じかとは存じますが、例えば、心理学で愛を性的衝動と定義することです。
精神病理学での症候群という考え方は、操作的定義ではありませんが、
何とか心を捉える努力をしているものの、直接的ではありません。
操作的定義は、絶対的にそれが愛であると主張するものではありません。
あくまで操作的であるに過ぎないことが自覚されています。

>心を対象とする部分だけは科学ではないと線引きをすることはできません。
どういうことでしょうか。

>このようなことが直接「死後の世界」の研究と結びつくわけではありませんが、
>私自身は様々な可能性を考えています。
検証できないような可能性は科学では考えることはできません。
いつかできるだろうというような論法も不可能です。
自然科学はあくまで経験科学ですから。

86 :Nanashi_et_al.:02/12/06 20:05
>>79-83

>>83
>論理の科学的な解明は既存の科学哲学のことでもう充分に言われています。
「論理の科学的な解明」ではなく「科学の論理の解明」でしょう。
それに、そういった解明は、まだ不十分でしょう。

>科学の論理が暑さと比べて「主観的」でないのはどうしてでしょうか
気温そのものは科学の論理ではありません。
気温観測の結果自体は、客観的です。
主観によって変わらないからです。
摂氏で計るか、華氏で計るか、ケルヴィン温度で計るかで値は変わりますが、
3つの値は論理的に(これは科学の論理です)理論上、入れ替え可能です。
計り方はごく単純な例ですが、その意味での絶対性を主張することができます。
主観に対して相対的ではないという意味です。
これに対して反対するにしろ、賛成するにしろ、
自然科学が経験科学であることをお忘れにならないでください。

>実際の現実的な科学の争点については私は余り言うべきことがありません。
>むしろここではスレタイからしてあなたの仰る思弁的な議論もどんどん行うべきだと思います。
思弁的な議論をすることに妥当性が見出せません。
科学原理主義者に対して、あなたは一種の蒙昧に陥っているとお考えになっていると存じますが、
私はそれについては賛成です。経験科学であるから当然と言えます。
しかし、あなたの「思弁的な議論」もこのスレでは観念論的な蒙昧に陥っています。
いわゆる科学主義の前提があるなら、私たちがそれが無根拠であることを示すことはできても、
それが誤っていることは示せないわけで、科学主義者を断罪することはできません。
蒙昧の状態から目を覚ますかどうかは、彼らの意志に関わってきます。
まったく逆の方向ですが、それと同じように、あなたも観念論的な蒙昧に陥っています。
大抵の科学に携わるものなら、超常現象とは相容れないとして関与しない一方で、
科学主義者が超常現象に反論しようとするのがナンセンスなのと同じように、
あなたがそのように観念論的に科学の論理を組み替えてしまうのはナンセンスです。
くどいのですが、自然科学が経験科学であることをお忘れにならないでください。

87 :Nanashi_et_al.:02/12/06 20:06
>>79-83

>>83
>私は観念論的な視点を導入することで、超常現象と科学がどんな関係を
>持つ事ができるのか、というごく狭い範囲の事柄を問題にしているに過ぎません。
観念論的な視点を導入することで科学の論理の争点を隠蔽してしまい、
その上でそのような関係を見出せるかどうかを問題になさっていても無意味でしょう。

>>82
>このように言う人はいないかもしれませんが、論理的に否定できる人もいないでしょう。
>当然のことですが否定すると同時に別の考え方を示す必要があります。

科学の論理からすれば、そんな考え方をする人はいません。
それが無根拠かどうかは、問題ではありません。
科学の論理が観念論的に無根拠だとしても、科学の論理から外れることを主張しても無意味です。
>>86で申し上げた通りです。

88 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:45
>>84
>それは無視しましょう。それにこだわるのは時間の無駄です。

私がこのスレでそのような人がいればあなたとしているような議論をしてみたいのです。

> 宇宙の外や死後の世界は、あくまで便宜的な例のつもりだったので、
>そこまで徹底的に、前者を自然の代表、後者を超越の代表として扱うことは無意味>です。

あなたの例がそれほど厳密なものでないのでしたら、死後の世界について科学の
対象になることを>>75のように「あり得ない仮定」とされる根拠がわかりません。

>(もちろん試行錯誤はありますが)原子核と電子とで構成されていると考えるとし>ます。
>これが自然なのは、私たちの“これまでの経験的な”世界のなかで考えられている>からでしょう。
>死後の世界はそこから超越しています。

ミクロの世界が原子核と電子にまで分解できることが特に超越的なことだとは
思いません。
そうではなく、物質を細かく分けていけば何か残るか、残らないか、分けられなくなるのか、
のいずれについても解決はできていないことを問題にしたわけです。
これが「これまで経験的」だったものの中で解決できる問題かどうかも
見通しがついているわけではありません。
「経験的なものに関連付けられている」という意味で考えると、確かにミクロの世界を考える
きっかけは「これまでの経験的な世界」の中にありますが、それなら死後の世界についても
同じ事です。

89 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:45
>自然科学での経験的な判断と言うより他はありません。

これまでの自然科学での経験的な判断だけで、これからも続いていくであろう
科学の対象を限定せねばならない理由があるでしょうか?
あなたが>>62で仰った、超常現象が「原理的」に科学の対象にならないというのは、
超常現象が今までの科学の中で、「これまでの経験的な」世界であるとは「経験的に」または
「感覚的に」見なされてこなかったという理由しか持たないのでしょうか?
現時点までの科学がそのようなものを対象にしてこなかった(或いはできなかった)
ことが、これからの科学の行く末まで束縛する理由にはなりません。

90 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:46
続き

>それは科学哲学ではありません。
>自然科学が経験科学であることを踏まえていない議論です。

自然科学が経験科学であることを私は否定していません。
あなたの「経験」そして「客観性」の定義が感覚的で曖昧であることが
そのような誤解を産んでいると思われます。
また、科学哲学も「哲学」であるからにはあなたがあえて軽視なさろうとする
「思弁的」な面も多分に含んでいるものと思われます。
矛盾するようですが、あなたの科学に対する考え方も、「経験」や「感覚」を重視する
ことで「思弁」を排除しようとされている点で、
あなたが考えておられる以上に「悪い意味で」思弁的なのではないでしょうか。

>大きな誤解です。

私などによってはいかなる反論もできないぐらい議論されているという意味です。
もちろん従来の科学哲学の中にも色々な主義主張の対立があるのでしょうが、
それらの問題が私がこのスレで超常現象について言ってきたようなことと
それほど関係があるとは思えません。
従来の科学哲学の中で、超常現象に関する意見の対立があるのでしたら、
それをここで問題にするのは全然構いません。
もし対立が存在するのなら、科学が超常現象を対象にする可能性が
従来の科学の中にすら残っているということになります。

91 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:47
>>85
>具体的に例を挙げてください。

http://www.jst.go.jp/pr/announce/20010124/
たまたま見つけたところですが、ここなどを参照してみて下さい。
本では『実験医学』という雑誌に似たようなテーマで論文が掲載されているのをよく見かけます。

>何とか心を捉える努力をしているものの、直接的ではありません。

あなたの仰る「操作的定義」によって心を捉えることが、
心が科学の対象であるかないかを決める上でどんな意味を持つのか、
もう少し説明をお願いします。

>どういうことでしょうか。

神経生理学は神経を対象としていますが、同時に神経のはたらきとしての
心も対象になります。その中で神経を対象にする部分だけを取り出して科学と呼ぶことはできないということです。

>検証できないような可能性は科学では考えることはできません。

私は検証可能なものとして自分の考えを提示していません。
この部分は私個人のアイディアに属するので、ここで公にはしたくないので
そこはご了承ください。
ただ私が可能性について色々考えていることがあるという事実を申し上げただけのことです。

92 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:48
>>86
>「論理の科学的な解明」ではなく「科学の論理の解明」でしょう。
>それに、そういった解明は、まだ不十分でしょう。

細かいことですが、私の申しました「論理の科学的な解明」とは
「(科学が使用する)論理に対する科学の視点からの反省」という意味です。
あなたの「科学の論理の解明」とほぼ同じです。
既成の科学哲学において、科学の論理の解明に関する議論で不十分さが指摘されていることで、
「超常現象」に関係するものがあれば挙げて頂きたく思います。

93 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:49
続き

>気温そのものは科学の論理ではありません。
>気温観測の結果自体は、客観的です。
>主観によって変わらないからです。

ここで「客観的」ということをあなたはこれまでとは別の意味で使っておられます。
それは「主観によって変化しない」ということです。
しかし暑さが主観に「よって」変化しているのかどうかはわかりません。
ただ色々に変化する「暑さ」を主観が捉えていることは確かですが、
それは別問題です。
逆に温度は主観に「よって」変化していないのか、ということもわかりません。
変化するとかしないということが主観によっているものなのかということが
問題になります。
例えば、私たちが体を動かす時、意志とは全く異なる動きをすることがあるとします。
でもそれは私たちの意志(主観)に「よって」体の動きが何の影響も受けていないということ
ではありません。
同じように、温度は意志(主観)で思い通りに動かせないということは確かです。
しかし温度が主観に「よって」変化していないかどうかはわかりません。
「暑さ」が変化するのが主観に「よって」だとする理由は何でしょうか?
この「よって」という言葉を省き、主観と「温度」の関係において、
温度が主観とともに変化するわけではないということを言うなら、それは「論理」も同じ事です。
1+1=2という論理は、人間の中にあるという意味では「主観的」ですが、
「これまでの経験的な世界」の中で主観によって様々に変化することはありません。
このようなわけで、「暑さ」が主観に対して相対的であるということが、
温度に比べてより「主観的」ということになるわけではありません。
長々と書きましたが、同じものに対して様々な見方を提示することで、
「死後の世界」のような極端な場合に限らずこの経験的な世界の中でも
そう簡単に科学法則の「客観性」を定義できないことを示したつもりです。

94 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:50
続き

>思弁的な議論をすることに妥当性が見出せません。

思弁的な議論は、科学が使っている論理を反省的に吟味することを含みます。
私が今まであなたに説明を希望してきました「客観性」や「自然と超越の区別」
などがそれに当たります。
これらについて単に「感覚的」な違いで他人を説得するようなものではない
「思弁的」な説明を行うことは科学という学問の位置付けという意味で重要です。
科学が「経験的」だから科学自体を科学の内部から説明できないことを正当化するのではなく、
科学そのものを対象としたより論理的な説明をすることの方が有意義だと思われます。

>科学原理主義者に対して、あなたは一種の蒙昧に陥っているとお考えになっている
>と存じます

私の批判は科学原理主義だけでなく、科学が学問として対象とするものを
どう決めるのか、について思弁的な議論を経ることなく感覚的に決定してしまうおうとする
独断主義に対するものでもあります。

95 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:51
続き

>いわゆる科学主義の前提があるなら、私たちがそれが無根拠であることを示すこと>はできても、
>それが誤っていることは示せないわけで、科学主義者を断罪することはできません。

そのような科学主義者が、自分たちの考え方が無根拠であると自覚しているとは
思いません。
私は観念論的な考えが無根拠であることはよく理解した上で、科学主義に対しても
観念論と同じくそれが無根拠であることを明らかにしようとしています。
科学主義にしても観念論にしても、科学に対する異なる視点を持っているわけですが、
私はそれらを両方とも根拠のない考え方として相対的に並べているわけです。
科学をどのように捉えることができるか、ということを一つの考え方にまとめることは
不可能なので、異なる多様な考え方を並置することで反省的な視点を提示しています。
あなたの科学に対する経験的な考え方も反省されるべき考え方に含まれます。
観念論的に科学主義を断罪しているわけではありません。
しかし、自分の見方を無自覚に「正しい」と主張することに対しては、超常現象の
盲目的な信者と同様に充分に断罪することができます。

>あなたがそのように観念論的に科学の論理を組み替えてしまうのはナンセンスです

科学の論理が科学の内側の視点から見られなければならないということこそ
ナンセンスです。
何かが科学の対象であるかどうかを決定するところの「客観性」があるかないかを判断する基準が「これまでの世界での経験、または感覚」しかないというのは科学そのものが
自身の思考について論理的に無反省であると言っていることになります。
又、本来あらゆる学問には自己反省の部分が含まれていなければならず、
それは実際には思弁的な哲学を自らに適用するということです。
科学だけがこれと無関係であるとは考えられません。
論理的な自己反省を通過しないような学問は、そもそも学問ですらありません。
学問とそれが対象としているものは別です。科学は経験的なものを対象にしますが、
それは科学自体までを経験的に見なければならないということではありません。
私は科学を観念論的に組み替えているのではなく、従来の科学への批判・反省を論理的な
形で行っているつもりです。

96 :Nanashi_et_al.:02/12/07 12:51
>>87
>観念論的な視点を導入することで科学の論理の争点を隠蔽してしまい、
>その上でそのような関係を見出せるかどうかを問題になさっていても無意味でしょう。

観念論的な視点が科学の論理の争点を隠蔽できるとは思いません。
むしろこれらが共存できるような視点を考えていくべきではないでしょうか。


>科学の論理からすれば、そんな考え方をする人はいません。

こんな考え方をする人がいるかどうかは大して問題ではありません。
これまでの「同じ物体」ということについての科学的な考え方(というものがあったとして)
に対して別の考え方を対置することで、科学が対象とし、観察するものについてどのような
解釈の仕方ができるかを反省的に捉えようとしたわけです。
又、自然科学者全員がこんな考え方をしたことが全く無いとは思いません。

97 :88:02/12/07 12:55
>>88

×私がこのスレでそのような人がいればあなたとしているような議論をしてみたいのです。
○私は、このスレでそのような人がいればあなたとしているような議論をしてみたいのです。



98 :Nanashi_et_al.:02/12/07 18:00
>>88-96

真剣な長文レスをいただくのは嬉しいのですが、もう少し短く纏めていただきたいです。
9レスに亙っては、レスは逐一つけられません。

予想した通り、話が平行線ですね。
「自然科学が経験科学であることを私は否定していません」と書いておきながら、
それを踏まえて議論をなさってはいません。例えば、次の箇所です。
>科学の論理が科学の内側の視点から見られなければならないということこそ
>ナンセンスです。
>何かが科学の対象であるかどうかを決定するところの「客観性」があるかないかを
>判断する基準が「これまでの世界での経験、または感覚」しかないというのは科学そのものが
>自身の思考について論理的に無反省であると言っていることになります。
>>89についても同じですが、科学のその論理に対する無反省だけを強調して、
経験についてはほとんど価値を認めていらっしゃいません。

私は思弁的であることを無視しているのではなく(思弁せずに検討はできません)、
あなたのように、科学の考え方を「まったく」無視して思弁に耽るのは無意味だと申し上げています。

99 :Nanashi_et_al.:02/12/07 18:01
>>93

>「死後の世界」のような極端な場合に限らずこの経験的な世界の中でも
>そう簡単に科学法則の「客観性」を定義できないことを示したつもりです。

ここで留まって満足するのは、無反省でしょう
(ここでも、経験について、まったく考慮されていません)。
これでは自然科学に寄せられている信頼を説明できない。
裁判で鑑識の結果に、「それは必ずしも客観的ではない」と言って抗議はしないでしょう。
そこから科学の客観性は何か、となると、経験ということになります。
>>93のように示して終わるのは、科学哲学に何らかを付け加えるどころか、
科学哲学以前のことで、観念論のドグマティズムです。

暑さと気温が引き合いに出されているので、それで検討すると、
暑さは人によって異なります。同じ部屋にいても、寒いと思う人と特に寒くはないと思う人がいます。
その部屋に誰もいないなら、その部屋が寒いかどうか問題にすることはできません。
このように、暑さは、主観があって初めて判断がなされるために、主観的なものです
(客観的な根拠がまったくないわけではありません。大本に主観があるということです)。
それでも、そのときのその部屋には、気温があります。
そこで予想される問題ですが、気温は主観的ではないのか、ということでしょう。
対称的に書くなら、主観的な根拠はありますが、大本に客観があるということです。
上では「大本に」の意味をそれほど詳らかにしませんでしたが、こちらの方はここで重要なので、
何とか言葉にしてみます。

摂氏、華氏、ケルヴィン温度とあるように、計り方はまったく主観的です。
どのような論理のうちに「計る」という観測行為があるかも、あなたの仰る通りであるなら、
主観的でしょう(これに単純には賛成しかねますが、今は経験という根拠についての説明ですので)。
しかし、観測行為が主観(や科学の論理)に対して相対的であったとしても、
どの観測行為についても、観測データは一義的に決まります。
データ(値)そのものは完全に対象に規定されていて、つまり完全に客観的であるということです。
再現性、反証可能性なども、このような「経験」の性質が根幹にあるのではないでしょうか。

100 :Nanashi_et_al.:02/12/07 18:07
>>98-99について、>>88-96のレスからの引用は最小限にしたつもりなので、
引用によって恣意的になってしまったのなら、連慮なく仰ってください。

101 :101:02/12/08 01:49
>>49
>具体的に、透視・念力・テレパシーといった現象を現行の物理学では
>どのように否定しているのでしょう。
>例えば、「手を触れずに物を動かすのは不可能」であることを
>理論的にどのように説明しているのか
「手を触れる」という定義から論証すべきでしょう。机に置いたものに
手が触れるということは、科学的には、手と対象物の間の距離が十分に接近し、
手と対象物の間に働く相互作用によって手の知覚神経に閾値以上の刺激が加わり、
知覚神経からインパルスが中枢神経へ送られている状態を意味します。このとき、
手と対象物の間には、ミクロ的には空間が存在しており、相互間の距離は 0 ではありません。
つまり、手で触れてものを動かすといっても、ミクロで見れば、手を触れずに物を動かしています。

したがって「手を触れずに物を動かす」と言っても、こっそり電磁力使うことを除外すれば、
既知の「力」(強い力、弱い力、電磁力、重力)以外の、何らかの未知の「力」を
用いて、動かそうとする人と対象物間の距離を極めて大きくとったまま、物を動かすという
物理現象と仮定することができます。これが、地球空間で存在しうるか、
あるいは特殊な空間で存在しうるか、ということを経験則から論証していけば、
ある程度の見当はつくでしょう。

102 :101:02/12/08 02:03
このように、超常現象の妥当性を検討していくには、超常現象を構成する要素を、
科学的に分析し、超常現象が物理的に存在しうると仮定した場合、
どのような未知の物理法則が必要かを考え、
それらが存在しうるかどうか検証するのが簡単だと思います。
で、「未知の物理法則」が実存不可能とすれば、それを前提とした
超常現象は存在しないと考えていくというのも一法でしょう。

103 :Nanashi_et_al. :02/12/08 16:53
>>98-99

>真剣な長文レスをいただくのは嬉しいのですが、もう少し短く纏めていただきたい>です。

>引用によって恣意的になってしまったのなら、連慮なく仰ってください。

私のレスの中で興味を持たれたところ、又はおかしいと感じられたところだけ問題にして下さって
構いません。
これからはなるべく短く書きたいと思います。
私もあなたの仰ることは大変勉強になるので、いつも早急なレスを頂いて
ありがたく思っております。

>科学の考え方を「まったく」無視して思弁に耽るのは無意味だと申し上げています。

無視はしておりません。あなたがなさっていることは科学の考え方の代弁というような
側面があると思いますが、私はあなたの考え方を無視したり、はぐらかしたりした
覚えはありません。(恣意的になった部分はあるかもしれません)。
もしあなたが具体的に科学の考え方についてまだ何も仰っていないということでしたら、
それについて議論することに異存はありません。

>ここで留まって満足するのは、無反省でしょう

満足はしておりません。これから更に検討していくつもりです。
あなたが使ってこられた言葉(客観性、経験、自然と超越など)について、意味が
曖昧であることを指摘するのは、私が上でしてきたように容易なことなのですが、
私自身があなたよりも明確な定義ができるわけではないので、ここでこれ以上まだ
考えていく余地があることは認めて頂けるかと思います。

104 :Nanashi_et_al.:02/12/08 16:55
続き

>データ(値)そのものは完全に対象に規定されていて、つまり完全に客観的であるということです。
>再現性、反証可能性なども、このような「経験」の性質が根幹にあるのではないでしょうか。

気温は、暑さ寒さということと切り離して考える事ができないという点で
「主観的」でしょう。触覚がない人、それも生まれたときから無いので
暑さ寒さについて想像さえできない人が仮にいたとすると、「気温」ということは
抽象的な「概念」になってしまうでしょう。
日常的に私たちが浴びる放射線量が2倍になっても何も感じないし、体にも変化が
殆ど起きないようなものです。
その場合、気温はその人にとっては主観的な意味は全くありません。


105 :Nanashi_et_al.:02/12/08 16:57
続き

しかし、気温の例は、「空気の分子の運動」といったことが加わって
話が複雑になってしまっていると思います。
そこで少し例を変えて、長さということで考えますと、私たちは定規などを使って
物の長さを測るわけですが、それは定規の長さだけは変化しないということに
基づいています。
一旦定規の長さを「変化しないもの」と決め、その上で例えば
机の縦の長さが定規の2倍、或いは3倍ということは「一義的」に決まってしまいます。
一方に変化しない「長さ」を持つものがあり、他方には長さのわからないものがある。
そして何かを変化しないものとして決めると、他のものもそれを基準にして
全て決まった長さを持つものとして捉えることができる。
ここで疑うことができるのは、変化しないと考えられている定規の長さが実は
変化しているのではないか、ということです。
宇宙全体が1000倍に拡大したと仮に考えた場合、ある部分だけが小さいまま残されるという
事態でも起きない限り、物の長さは少しも変化しないように見えます。
物理法則が宇宙が1000倍も拡大したのに変化しないというのは
おかしいみたいですが、いつも拡大縮小しているのに変化しない(ように見える)ものだけが
私たちの世界の物理法則なのかもしれないと考えると否定できません。


106 :Nanashi_et_al.:02/12/08 16:57
続き

長さそのものに対象に規定された根拠があるのかという問題もあります。
二つのものを見てどちらが長いかというのは見比べれば判断できます。
しかし、それは視点から対象への距離によって変わってきます。
(「視点から対象への距離」という考え方自体客観的な「長さ」を前提にしているわけですが)
そのため見た目の「長いか短いか」は「主観的」と言えるでしょうが、
「一方の長さが他方の二つ分」ということになりますと主観で変わるようなものではありません。
ここで「長さ」をこのように「比率」と結びつけて捉えるのが人間の「論理」だと
することも可能でしょう。1+1=2の説明と同じようなものです。
でもいずれにせよ「決まった長さ」が対象に「規定されている」と考えることができること、
または対象を決まった長さを持つ物として「決めることができる」のは
間違いありません。
あなたが暑さと温度について仰りたい事は、以上のようなことと関係があるのではないでしょうか。

107 :Nanashi_et_al.:02/12/08 16:59
>>102
>このように、超常現象の妥当性を検討していくには、超常現象を構成する要素を、
>科学的に分析し、超常現象が物理的に存在しうると仮定した場合、
>どのような未知の物理法則が必要かを考え、
>それらが存在しうるかどうか検証するのが簡単だと思います。

超常現象が存在すると仮定した場合、既知の科学法則と両立しない部分が
出てくると思われますが、その場合「未知の現象に関する部分」についてだけ
未知の物理法則と既知の物理法則が折り合わない部分があるのか、
既に知られている現象の説明について、未知の物理法則が存在することによって
既知の法則では決定的に説明できないことが出てくるのか、という二つの場合が考えられます。


108 :34:02/12/08 17:20
既に何について議論しているのか、当事者が分からなくなってきているのでは?
特に片方の方。

科学という説明体系がオカルトや妖怪といった他の説明体系よりも力を持つのは、その適用範囲が条件付であることに起因するわけで、
それを理解できてさえいれば、これらは激しく不要な議論なのではないかと思うのですが・・。

いや、片方の方が分かっていないため、議論が始まり、且つ続いているのでしょうけど。


このレスも関係なく、話は続きそうですが。

109 :Nanashi_et_al.:02/12/09 10:47
>>108
>科学という説明体系がオカルトや妖怪といった他の説明体系よりも力を持つのは、
>その適用範囲が条件付であることに起因するわけで

これについてもう少しお話を聞かせて頂けませんか?
また、科学がほかの説明体系より力を持つかどうかということが
超常現象について考える際にどのような意味があるのかについても
併せてお聞かせください。

110 :34:02/12/09 20:05
>>109

第一に、科学というのは妖怪や呪いといったものと同じで、ひとつの説明体系にすぎません。通常は対立するものではありませんし、どちらが正しいというわけでもありません。むしろ相互補助をする関係となります。

この単純な出発点を分からないでいると、袋小路に迷い込みます。

例えば、
妖怪が実際にいるとかいないといった問いがありますが、妖怪という概念自体が"何らかの現象に対する説明体系"であることを理解していれば、それが如何にナンセンスな問いかご理解いただけるものと思います。

さて、同じ説明体系でありながら、現代において科学のみが非常に力を持っているのにはいくつかの理由がありますが、その一番大きなファクトは「再現性」です。
再現性、つまり、同じ環境を整えれば、同じ結果を得られることです。

これが故に、科学は大きな信頼を得ているのですし、科学がただの後付による説明に終わらないのも、実はこの点に起因しています。


そしてそれ故に、
"科学の適用範囲は「再現性」のある事象に限られる"のです。

111 :34:02/12/09 20:05
(続き)

よって、科学はすべてをその範囲と出来ないため、"科学という手法によらない説明体系"は当然存在しますし、あって当然なのです。

ここでいう超常現象とは、結局のところ、ほとんどは"再現性の薄い事象"です。
逆にいうと、再現性が高い事象というのは、とうの昔に科学による説明がなされているため、科学の適用範囲から外れているor科学というアプローチが有効ではない事象こそが超常現象の定義なのだと云えます。

それ故、超常現象(何らかの再現性の薄い現象)に対して、"それが科学的に説明できなければいけない"というのは間違い、というよりは、むしろ不毛な考えです。


システムの限界に無自覚であったり、そもそも、それがひとつのシステムであるということ自体に気付かない故に発生するプロブレムというのは比較的によくあって、科学における超常現象云々というのも、ほとんどはそういったプロブレムなのです。


ここのスレ主のような、
"科学によらない説明体系はすべて間違いだ"という考えは、科学の適用限界について無自覚なことに起因するわけで、
それがつまりは、
>それを理解できてさえいれば、これらは激しく不要な議論なのではないかと思うのですが・・。
の意味なのです。

112 :109:02/12/10 10:35
>>110-111

実に説得力のある考え方をなさっておられると思います。
一点だけ反論してみたいと思うのですが、科学のやってきたことは、
再現性が以前はとても考えられなかったような事柄について、
再現性を発見してきたという面があると思います。
それは科学によって観察し得る世界の拡大ということに
よるところが大きいと思います。
観察できるようになる前は、従来の科学で正に「超常現象」と
捉えるしかなかったものも多かったのではないでしょうか。

現在再現不可能と呼ばれているものであっても、何らかの仕方で
それが再現可能なものとして見られるようになる可能性については
どう考えられますか?
現在「超常現象」と呼ばれているものに「科学的」には決して
再現可能性を見つけることができない根拠を考えることができるでしょうか?

113 :34:02/12/10 23:12
>現在再現不可能と呼ばれているものであっても、何らかの仕方で
>それが再現可能なものとして見られるようになる可能性については
>どう考えられますか?

可能性は当然あります。
そして、それが科学が超常現象自体を否定しない理由です。

>現在「超常現象」と呼ばれているものに「科学的」には決して
>再現可能性を見つけることができない根拠を考えることができるでしょうか?

見つけることが絶対に出来ないことはありません。可能性はあります。
しかし、かなり薄いと云えます。


私が云っているのは、"超常現象=再現性が薄い=科学で考える意味なし"ということではなくて、科学の適用限界に無自覚故に、"科学で説明できなくてはならない"という妄執に憑かれる危険性のことです。

このスレでの本来の命題も、その妄執によるもので、それ故に私は"不要な議論"と考えるのです。
そして、超常現象等に関して現れる問題のほとんどは、この手の妄執による葛藤及び苦悶であり、私が指摘しているのは、そのことなのです。

114 :Nanashi_et_al. ◆kXn47FN4zU :02/12/11 04:07
>>103-106

>>103
概ね同意ということで。

>>104
>気温は、暑さ寒さということと切り離して考える事ができないという点で
これはまったく逆です。
>>99で書いた通り、暑さ・寒さと切り離して考えられます。
あなたの仰る意味で「抽象的な概念」であることを目指していると言い換えてもよいと思います。

>>105
>ここで疑うことができるのは、変化しないと考えられている定規の長さが実は
>変化しているのではないか、ということです。
確かに疑いえますが、まずは疑う必要はありません
(もちろん、疑ってしかるべきときもありますが)。
定規の長さが一定であるという仮定に対する疑いは、2つあると思われます。

1つは、経験的な範囲での疑いです。
開けた場所に細い棒を立てて(この棒の伸縮は今は措いておきます)、
日中のこの棒の影の長さの移り変わりを、定規で測ることを考えます。
日中に寒暖か何かで定規が伸縮するとしても、
影の長さの伸縮の程度に引き比べたら、無視できるほど小さいために、
結果の一義性・客観性が、十分に保障されることになります。
定規が厳密には伸縮しているとはいっても、
その長さを一定であると仮定するのに十分な理由があるわけです。
せいぜい精度の問題ということになります。

115 :Nanashi_et_al. ◆kXn47FN4zU :02/12/11 04:08
>>103-106

>>105
>宇宙全体が1000倍に拡大したと仮に考えた場合、
もう1つは、この引用にあるような疑いです。
都合のよいスコラ的な仮定をしておいて「否定はできない」となっているようですが、
長さの客観性については、何も問題はありません。
「物理法則一般について、それでは汲みえない事象がありうる」と要約してよいと思いますが、
その事象が物理法則で汲みえない以上、長さの測定という物理的な行為も、
その事象とは無関係ということであり、その意味においては、
客観性の問題とは何も関係ありません。

>>106
>でもいずれにせよ「決まった長さ」が対象に「規定されている」と考えることができること、
>または対象を決まった長さを持つ物として「決めることができる」のは
>間違いありません。
概ね賛成ということで。

116 :Nanashi_et_al. ◆kXn47FN4zU :02/12/11 04:08
>>108-113

>既に何について議論しているのか、当事者が分からなくなってきているのでは?
申し訳ないです。

>科学という説明体系がオカルトや妖怪といった他の説明体系よりも力を持つのは、
>その適用範囲が条件付であることに起因するわけで、
>それを理解できてさえいれば、これらは激しく不要な議論なのではないかと思うのですが・・。
その通りだと思います。
しかし、適用範囲にどのような条件があるのかとなると、
途端にドツボにはまることになります。
>"科学の適用範囲は「再現性」のある事象に限られる"
と単純にはできません。
スプーン曲げのようなことは、再現性はありますが、当然対象とはなりません。
再現のさせ方が科学の方法に適っていないからでしょう。
また、ビッグバンや進化といったものは、再現ができなかったり難しかったりします。
だから「再現性を利用して実証できる事象」とした方がよいような気がしますが、
「再現性を利用して実証できる」の意味がとても曖昧なものになってしまいます。
だからこそ科学哲学があるわけですが。

科学の範囲から外れているものが超常現象だというのは、うまく言い当てていると思います。
科学に対する日常的な信頼があって、ある1群の現象に超常現象というレッテルが貼られ、
超常現象肯定派vs否定派という構図ができているのでしょう。
そういったレッテル貼りの弊害は、次のような感じだと思われます。
前述のレッテル貼りからすると、超常現象は科学とは相容れません。
レッテル貼り以前の科学的な立場で考えても、超常現象一般は科学とは相容れません
(前レスで「原理的に相容れない」という表現をした覚えがあります)。

117 :Nanashi_et_al. ◆kXn47FN4zU :02/12/11 04:09
>>108-113

>>116で一般という言い方をしたのは、レッテル貼りということが挙げられている通り、
個々の現象に触れたいというわけではなく、抽象的な集合について触れたいからです。
個々の現象についてなら、たとえどんな現象でも、
再現性(これが科学の特徴とすると)の生じる可能性を完全には否定できないでしょう
>>113の超常現象自体とは、この個々の現象の意味だと思います)。
超常現象一般(レッテル)については、その可能性は完全に否定されることになります。

この区別をするなら「超常現象一般が原理的に科学とは相容れない」ということに対して、
>>112のような反論はできないことになります。
それは、超常現象一般ではなく個々の超常現象について触れているからです。
超常現象一般と個々の超常現象とは、区別できますが、関係ないわけではなく、
個々の超常現象はそれが超常現象とされるに十分な理由があるわけです。
だから、個々の超常現象に再現性が発見されることは、今の段階ではあくまで、
可能性としてしか語られません。

科学の適用限界に自覚的になることは、
この超常現象一般と個々の超常現象との区別をすることでしょう。
その区別をすれば、オカルトに走るか、あくまで超常現象なのだからと科学的な解明を放棄するか、
限界を自覚しつつ単に現象として科学的に解明するか、いずれかを選ぶことになるでしょう
(いちばん最後の選択肢を選ぶ人はまずいないと思われますが……可能性として)。

118 :34:02/12/11 17:44
◆kXn47FN4zUさんが何を主張したいのか、良く分かりません(^^; 部分的に思うところを。

>スプーン曲げのようなことは、再現性はありますが、当然対象とはなりません。
>再現のさせ方が科学の方法に適っていないからでしょう。

それを再現性が薄いというのです。

>また、ビッグバンや進化といったものは、再現ができなかったり難しかったりします。

ですから、それらは通常の自然科学とは区別されることが多いのです。

>だから「再現性を利用して実証できる事象」とした方がよいような気がしますが、

同感です。

>超常現象一般(レッテル)については、その可能性は完全に否定されることになります。

なぜでしょう?そう定義したのですか?それならば別に良いのですけど。

>科学の適用限界に自覚的になることは、
>この超常現象一般と個々の超常現象との区別をすることでしょう。

貴方の云う超常現象一般、という考えが良く分かりません。ある特定の傾向を持った現象の集合という意味であるのなら、分かりますが、違うようですし。

・・と思っていたのですが、しばらく考えて分かりました。
貴方の云う"超常現象一般"とは、"科学では説明されえない事象"なわけですね。ご自分でそう定義されているようです。
だから、
>科学の適用限界に自覚的になることは、
>この超常現象一般と個々の超常現象との区別をすることでしょう。
という考えに至るわけですか。納得。

119 :勉強不足の1:02/12/18 02:12
"超常現象一般"とは、"科学では説明されえない事象"

これがよくわからないです。
「現行の」科学ではなく、
そもそも科学とは一線を画すものだということですよね?
これが宗教とか思想ならば、
また、オカルトでも主観的精神的なものならわかります。
神の存在や魂の問題ならはそれで納得できますが、超能力なら?

例えばスプーン曲げなどは実在するとするならば、
「物理現象」以外の何物でもないような気がします。
「現実に」物質を曲げているのですから…
これに関していうならば、
「未知の物理現象」or「インチキ」しかないのではないですか?
念写もそうでしょう。
カメラに影響を及ぼす事象が科学とは関係ないとはとても思えないのですが・・・

すみません、あと相対論が間違っているという説はどうですか?
相対論自体理解しているといえないので反論できません。

120 :Nanashi_et_al.:02/12/18 02:28
>>また、ビッグバンや進化といったものは、再現ができなかったり難しかったりします。
>ですから、それらは通常の自然科学とは区別されることが多いのです。

最近は宇宙論も精密科学に入りつつあるよ。

121 :Nanashi_et_al. ◆kXn47FN4zU :02/12/18 22:50
>>118
>◆kXn47FN4zUさんが何を主張したいのか、良く分かりません(^^;

すいません。
「超常現象はそもそも科学とは相容れない」(>>34さんのレス>>34と同じであるつもりです)
>>117
>>科学の適用限界に自覚的になることは、
>>この超常現象一般と個々の超常現象との区別をすることでしょう。
この辺りで「超常現象」という言葉に翻弄されているだけだと言いたかった。

>それを再現性が薄いというのです。

>ですから、それらは通常の自然科学とは区別されることが多いのです。

そうですね。

>なぜでしょう?そう定義したのですか?それならば別に良いのですけど。

「超常現象一般」と「個々の超常現象」は、
それぞれ「超常現象」というカテゴリーの内包と外延と考えた方が解りやすいかもしれません。
「超常現象一般」が「科学では説明されえない事象」であるというの
「科学が常識として受け入れられていること(科学で正しいことは日常的にも正しい)」と、
「超常現象というレッテルが、文字通り常識を超えた現象に貼られていること」から、
「超常現象は、そもそも科学では説明できないような事象である」と考えてよいでしょう。
……説明下手ですいません。

122 :Nanashi_et_al. ◆kXn47FN4zU :02/12/18 22:51
>>119

>これがよくわからないです。
>「現行の」科学ではなく、
>そもそも科学とは一線を画すものだということですよね?
>これが宗教とか思想ならば、
>また、オカルトでも主観的精神的なものならわかります。
>神の存在や魂の問題ならはそれで納得できますが、超能力なら?

大霊界とか超能力とか、それは「個々の超常現象」であって、
再現性のような科学的検証の契機が見出されれば、科学の対象となりえます。
ただ、その時点で「超常現象」ではなくなっています。

123 :山崎渉:03/01/11 22:18
(^^)

124 :山崎渉:03/01/17 04:24
(^^)

125 :山崎渉:03/03/13 14:48
(^^)

126 :山崎渉:03/05/22 00:38
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―

127 :Nanashi_et_al.:03/05/22 04:55
何か言おうとしたんだけど、40−50あたりで大体言いたいことがかかれていた。

あんまり関係ないけど、大槻さんがTVでみせるリアクションはTV的な演出であんまり科学者的でないようなきがする。
本人もそれはよく分かったうえでやっているようだけど、TVを真面目に見てる人には誤解を招きやすくて危険だと思う。


128 :Nanashi_et_al.:03/05/22 16:29
宗教を否定するのは無理だから超常現象とゆう宗教否定は無理

129 :Nanashi_et_al.:03/05/22 16:39
http://www.3-3.run.to

130 :Nanashi_et_al.:03/05/23 12:14
スプーンmage

131 :山崎渉:03/05/28 14:21
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉

132 :山崎 渉:03/07/15 13:18

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄

133 :なまえをいれてください:03/07/17 16:42
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。

134 :Nanashi_et_al.:03/07/29 00:41


135 :Nanashi_et_al.:03/07/29 00:46
理論で武装しないで、その”超常現象”が起こったときの条件を根掘り葉掘り聞いて
「なんとも不自然な話ダナー」と言ってあげればよいのではないでしょうか?

136 :ぼるじょあ ◆yBEncckFOU :03/08/02 02:59
     ∧_∧  ∧_∧
ピュ.ー (  ・3・) (  ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
  = ◎――――――◎                      山崎渉&ぼるじょあ

137 :山崎 渉:03/08/15 19:07
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン

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